付き合い始めて、というか。付き合ってほしいとはっきり口に出して言ったわけではないけれど、私たちはそういう関係にあるし、お互いそう認識してもいる。
それなのに「らしい」ことは何一つできていないままそろそろ一ヶ月が経とうとしていて、だからこういう状況は初めてじゃないにしても慣れているわけではないからいつもどうすれば良いのか分からなくて私は途方にくれる。

「卯月」

「ん…、まだ、やです」

何度目かのやりとりに、同じ回数だけついたため息。
壁の冷たさに背中が慣れるくらいの時間はこうしている。

今日は卯月はレッスンだけで、私も雑誌の取材が一本だけの予定だったから待ち合わせて一緒に帰ろうって、そう話をしていた。
仕事を終えてからプロジェクトルームに入ったらすぐに卯月が駆け寄ってきて、待たせちゃったかなって思って声をかけようとしたら、卯月は私をじっと見つめて凛ちゃんって呼んだかと思うと、私の手を取ってぐいぐい部屋の奥に引っ張った。それからパーテーションで仕切られて、ドアを開けてもすぐには見えない場所までくると、ガバッと音がしそうな勢いで抱きついてきた。その勢いで私は思わず後ろに下がり、壁に押し付けられたような格好になる。
常に無い強引で大胆な行動に、え、と思う間もなく卯月は私の首元に頭をぐりぐり擦り付けて、それからずっとこんな調子だ。
どうしたのって言ってもなんでもないです、の繰り返しで、もうちょっと、とかあと少し、とか言って離れようとしない。

本当は抱き締めたいな、と思うけどここはプロジェクトルームで。
皆のスケジュールを確認する限り今日はもう誰も来ないだろうと思ってはいても、もし誰かに見られたら、と躊躇してしまう。

結局、私は卯月を抱き寄せるどころかその背中に腕を回すことすらもできないでいるし、かといって全く何もしないでいられるほど冷静でもなくて、目の前でふわふわ揺れている柔らかな彼女の髪に指を絡めて毛先をもてあそびながらそわそわした気持ちを誤魔化している。
卯月が動くたびに首がくすぐったいし、なんだか良い匂いがするし、これ以上はちょっと耐えられそうにないなって思ってもう一度呼んだら、渋々といった様子でゆっくりと顔を上げた卯月と目が合った。

「…凛、ちゃん」

「っ、…」

こういう時どうすればいいのか、
私は知らない。

少し掠れた声も、ハの字になった眉も、切なそうな瞳も、私の首筋に額を押し付けていたせいでちょっと乱れている前髪も、遠慮がちに制服の裾を掴んでいる華奢な手も、すべてが暴力的なまでに私の感情を揺さぶって、その激しさに我を忘れそうになる。

「そろそろ、帰ろうか?」

気づかれない程度の速度でゆっくり目を逸らしてそれだけ言うと、卯月の手に少しだけ触れて放してくれるよう促した。

「凛ちゃんは」

「え?」

「ううん、なんでもない」

何か言いかけた卯月が俯いて首を振る。
つられて落とした視線の先にきゅっ、と握りしめた拳が見えて、あ、って思ったのに顔を上げた卯月はいつもと変わらない笑顔で。
帰ろう凛ちゃん、と言われて私は戸惑う。
最近よく見るようになったそれの意味を、私は解っているようで、きっと解ってはいなくて。
でも卯月に確かめることもできないまま日々を過ごしている。
考えてみれば私たちは二人きりになれるタイミングも場所もそう多くはなくて、一緒の仕事は多くなったり少なくなったりでまちまちだし、そもそも仕事のときはいつだって他の誰かがいる。
その癖、いざ二人きりになると私は酷く臆病で、卯月に触れることすら覚束無い。これなら片想いだった頃の方がまだ積極的だったのではないかと情けないし、それ以上にもどかしくてならない。

「なーに難しい顔してんのさ」

「…もともとこういう顔なの」

茶化すような未央の言葉にそっぽを向いて答える。
今日はニュージェネレーションズとしてラジオ番組の収録に来ていて、私たちはその控え室にいる。
卯月は別件の仕事の打ち合わせがあるとかでプロデューサーに呼ばれて部屋を出てから、まだ戻ってこない。

「しぶりんのことだし、しまむーのことでも考えてたんじゃないの?」

「別に」

図星を指されて睨み付けると、しぶりんってばこわーい、なんて楽しそうに笑ったのがまた癪にさわる。
未央には私たちのことを話していて、というより話そうかどうしようかと迷っている間にバレてしまって、それからというもの、時折思い出したようにからかってくるから厄介だ。

「ね、そういえばさ」

「なに」

「しまむーとなんか進展あった?」

「はあ?」

「まあまあ、怒んないでよ。これでも心配してるんだからさ」

楽しんでる、の間違いじゃないのと思いながら眉間に皺を寄せると、未央ちゃん心配で眠れないんですぅ、なんて妙な科を作って誤魔化そうとする。
これは明らかに楽しんでいるな、と思ってどうやり返してやろうかと考えるけれど、形勢は不利なままだ。

「お疲れ様です。未央ちゃんプロデューサーさんが呼んでますよー。…って、あれ?」

部屋に入ってきた卯月が、妙にニヤニヤしている未央とその横で不貞腐れている私の様子を見て首をかしげる。

「どうしたんですか?二人とも」

「いやー、しまむーは可愛いなって話をしててさー」

「えぇっ?!」

「未央っ」

未央の言葉に慌てた卯月の顔が赤く染まる。
そんなこと話してなかったでしょ、と抗議しようとしたら肩がぽんぽんと軽く叩かれて、なに?って未央の顔を見たら、邪気の欠片もないような爽やかな笑顔が向けられる。

「おっと、プロデューサーが呼んでるんだった」

「は?!」

わざとらしい口調で言ってから扉に向かう後ろ姿が憎らしい。
この空気をそのままにして置いていくなんて鬼なのか、そう言おうとしたのに、未央は手を振って情け容赦なく出ていってしまう。

バタン、と閉じたドアを茫然と見ながら私は内心で頭を抱えた。

「…ええと、あの…」

「冗談だから」

「へっ?」

「冗談だから。未央の」

「あ、ああ。…そ、そう、ですよねー」

ぶっきらぼうな私の言葉に、ほんのわずかに眉を下げて卯月が笑う。その表情に私はまた、あ、って思う。

また、そんな顔をする。

でも私はどうすればいいのかやっぱり分からなくて。

「卯月」

少し離れたところで所在無げに佇む卯月に声を掛ける。そばにおいでよ、という意味を込めて軽く笑うと、安心したのかちょこちょこと寄ってきて私の隣の椅子に座った。
可愛いな、って思って顔を見るけど卯月はまだ少し気恥ずかしいのか私の方を見ていなくて、目を合わせてくれない。

そういえば、
今日はまだ挨拶くらいしかしていなかった。

唐突にそれに気がついて、私はどうしても自分を見てほしいと思ってしまう。
それでもこっち向いてとはなんとなく言えなくて、どうしたら見てもらえるかと考えて、卯月の髪にそっと触れた。卯月は少しびくりとしたけれど、まだ私を見ようとしない。
私は彼女の髪をひと房取り、指を絡ませてちょいちょいと手の中で軽く遊ばせたけど卯月はそれでもやっぱりこちらを向いてくれない。

焦れて、顔を覗きこんで、
目が合って。
そこで私はしまった、と思う。

まだ少し紅潮した頬。
いきなり私が覗きこんだことで驚いている瞳は、目を逸らそうかどうしようかと迷っている様子なのにずいぶんとまっすぐ見つめてくる。
その視線に私は焦って、目を逸らそうとして、たぶん何か言わなくちゃと考えているせいで薄く開いている卯月の唇を見て、完全に失敗したと思った。

急激な緊張に、知らず呼吸が浅くなる。
視線の変化に気がついた卯月が、むぐ、と口を閉じて、思い直したようにもう一度開いて、声には出さずにりんちゃん、と小さく動かす。
私は、どうしよう、とその言葉ばかりが頭の中に浮かんで、情けないことにそれ以上何か言うこともできず、何かすることもできず、でも卯月の視線を逃がしたくなくてじっと見つめたままでいる。
卯月が眉尻を下げて、逸らすことができない瞳をほんの少し潤ませて、とうとう完全に困った顔をしても、なお。

不意にバタバタと誰かが外を歩く音がして、ハッとしたら卯月は椅子から立ち上がっていて、私にぎこちない笑顔を向けていた。

「わ、私、飲み物買ってきますね」

「あ、ああ…、うん」

パタン、と静かに閉じられた扉を見ながら肺の奥に溜まった空気を細く吐き出す。

ああ、まったく、本当に。

自分の不甲斐なさに情けなくなってテーブルに突っ伏すと、ごちん、と思いきり額を打ち付けて、ひとり痛みに耐えながら深くため息をついた。
その日はいわゆるお家デートというやつで、考えてみれば卯月を部屋に上げるのはずいぶんと久しぶりだった。
イベントの少ない時期だったからか珍しく休日にオフが重なって、どこか行きたいところとかある?と尋ねたら卯月は腕組みをしてからしばらく考え込んで、凛ちゃんのお部屋です、と答えた。
私はその時深く考えずに、最近忙しいからあまり遠出せずにゆっくりしたいのかな、と思って頷いた。

「凛ちゃんのお部屋って」

「ん?」

「いつ来ても凛ちゃんだなあって思いますね」

自室に通して数分。
ミルクティーを一口飲んでから、テーブルの向かい側に座っている卯月がそう言ってえへへ、と笑う。
それは褒めているのか、何なのか。
嬉しそうな表情を見る限り悪い意味ではなさそうだと判断するけれど、どう反応していいのかわからずに私は自分の紅茶を啜って卯月から視線を外す。

それからはいつも通り、事務所の皆のこととか仕事のこととか学校のこととか、卯月が喋って私が相槌を打って、普段と何も変わらない会話が続く。
私はそのことに安心して、油断して、ほんのわずかな間だけど卯月が私を特別の意味で好いてくれているということを、そして私自身が彼女のことを想っていることを忘れていた、というよりそのことが頭からすっぽり抜け落ちていた。

「あ、飲み物もうない。入れてくるよ。卯月は何がいい?」

「うーん、凛ちゃんのと同じでいいです」

そう言った卯月が差し出したカップを受け取る。手が触れあって、その瞬間に卯月はびくりと肩を震わせて、え、って思って顔を見たら卯月はずいぶん慌てていて、私がカップをしっかり受け取っていることを見てとると手を引っ込めて俯いた。髪の隙間から覗く耳が赤く染まっている。

それ、なに。なんで。どうしたの。

うまく頭が回らずに、ただそれだけが浮かぶ。
数秒を要して卯月が慌てた意味を、俯いた意味をようやく理解して、私は自分の頬が熱くなることに気がついた。

「あの…」

どう声を掛けたらいいのか分からない。
室内の空気が急速に密度を増して、でも重苦しいとかそういうわけじゃなくて、ただ、たまに卯月がくっついてくるときのような気恥ずかしさと焦りを覚える。

でも、
今は、本当に二人きりだ。

いつものように誰かに見られたらと焦る必要もない。
自宅の自室という私たち以外誰もいない空間で、私たちはどうしようもなく二人きりだ。

受け取って手に持ったままだったカップをテーブルに置くと、カタンと音がして卯月が顔を上げる。頬を染めて、困ったような顔をして、私を見る。

「…凛ちゃん」

小さな声で呼ばれて、立ち上がろうとして中腰のままだった私はそのまま卯月のすぐ横に移動して、ストンと腰を下ろした。
顔を見ると卯月も私を見ていて、でも目を合わせたかと思うと視線を下に落としたり、また戻したりで落ち着かない様子でいる。

「卯月」

おどかさないようにできるだけ穏やかな声で呼んで、卯月の手を取って、その指に自分の指を絡ませる。
じっと見つめると、卯月は一度だけ視線を横に外して、それからすぐ何かを決意したみたいなまっすぐな瞳で見つめ返してきた。

私は空いている方の手で卯月の肩にそっと触れて、少しだけ抱き寄せるように力を込めて、顔を寄せて、息がかかる程に近づいて、ああ、いったいいつ目を閉じればいいんだろうなんてどこか冷静に思った。

「目、閉じて?」

言うと卯月はまたカッと赤くなって、うぅ、と小さく喉の奥で言ってから、それでも素直に目を閉じてくれて、私は内心本当にありえないくらい緊張しながら慎重にゆっくりと唇を重ねた。

「…ぁ、…は、っ」


そう長くはない時間触れ合わせてからそっと離れると二人分の吐息が空中に溶けた。
私も卯月も目を合わせるどころかお互いの顔を見ることもできない。

たったこれだけのことなのに、どうしてこんなに緊張するんだろう。
ぼんやりと考えていると、絡めていた指にぎゅっと力が込められて、卯月が口を開く。

「…私、ずっと」

「え?」

「ずっと、思ってたんです。…凛ちゃんと、その、キス、したいな、って」

驚いて思わず顔を見たら卯月は上目遣いで私を見つめていて、その瞳はたぶん恥ずかしさのせいで潤んでいて、私はまたどきりとする。

「その、でも、凛ちゃん全然してくれないし、私がくっついても平気そうだし、そう思ってるのは私だけなのかな、って」

「…卯月」

そんなこと、ないのに。

本当は、もっと二人きりになりたかった。触れたかった。抱き締めたかった。
キス、したかった。

だけど、決して言葉にはできなかった。

「あのさ」

ああ、こんなの、絶対に恥ずかしいのに。

「キス、しよう。いっぱい」

「え、…えっ?」

「私だって、したい、って思ってたよ。ずっと」

「り、りんちゃ」

卯月が何か言いかけたけれど、私は卯月を思いきり抱き締めて、恥ずかしさを誤魔化して、それからキスをした。
何度も。

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