デート、しませんか。

紆余曲折あって、晴れてお付き合いすることとなった美優さんから半月ほど前に聞いたその言葉が実現される運びとなったのは昨夜のこと。
押さえていたロケ地の悪天候で撮影が延期となったために翌日は急遽オフ。この職業に就いてからはさほど珍しくもないリスケで、折角の空いた時間に他の仕事が入ってくることも日常茶飯事と言える。
ただ、今回ばかりは違う。
プロデューサーに休日が保証されることを念入りに確認した上で意気揚々と連絡を取った相手は、きっかり三コール目で応答した。
落ち着いた声が少しだけ弾んでいて思わず自分の顔がにやけるのが分かったが、心を落ち着かせて休みを告げると、電話の向こうの相手は一瞬の空白の後に明日デートしましょう、と珍しく今度は強く言い切った。



「おはようございます」

玄関の扉を開けた途端、目に飛び込んできた笑顔は少し考えても記憶にないくらい眩い。
彼女――美優さんの笑顔といえば優しげなものや儚げなもの、憂いを帯びたもの、苦笑混じり、まだまだいくつも思い浮かぶというのにこんな風に明るい笑顔はおそらく見たことがないのだと思う。

「…楓さん?」

困惑に首を傾げた美優さんに声をかけられるまでおはようございます、と返すのを忘れるほど見惚れてしまっていたのだから。

慌てて挨拶し、沈黙して妙な空気になってしまった間をフォローすべく、何か話そうと美優さんの姿に目を配るとそこでまた息を飲む。

一週間ぶりくらいだろうか。久しぶりに見る美優さんは夏らしい爽やかな白い麦わらの中折れ帽をやや斜めに被り、サイドの髪を半分くらいまで軽く編み込んで、纏めた髪を左の肩に流している。薄い水色のカラーシャツに真っ白な七分丈のスキニーパンツ、サンダルというシンプルなスタイルがよく似合っていた。
可愛らしい人や美しい人は見慣れているはずなのに、十代の、まるで少年か少女のように固まった自分の反応に苦笑が零れそうになる。

「美優さん」

「はい」

「あの、今日はよろしくお願いします」

「…? はい、こちらこそ」

気の利いたことの言えない私にまた眩い笑顔を向けた美優さんに、どうしようもなく可愛い人と思いながら、私たちの初めてのデートは始まった。



朝食も一緒にと事前に伝えられていたため起床してから軽く一杯の水を飲んでいただけの胃が、歩くうちに空腹を訴える。

「美優さん、お腹が空きました」

「もう少しだから我慢してくださいね」

近況を話しながら歩いている十五分ほどの間に何度か同じやり取りを繰り返したけれどこれはじゃれあいのようなもので、美優さんは楽しそうに楓さんってお酒が無いと食いしん坊ですねと笑ってばかりいる。
やがて辿り着いたのは住宅街の中にある小さなカフェで、注文したモーニングセットのパンがとても気に入ったことを伝えると美優さんはまた顔をほころばせて、今度は楓さんのお宅にお邪魔するときに買っていきましょうかと嬉しそうに言う。

カフェを出て、次はどこに行くんでしょうと尋ねると、美優さんは少し移動しますと答えて駅への道を指差した。平日の通勤ラッシュが終わったばかりの時間は空いているんですよ、と言いながら高垣楓を電車に乗せても大丈夫なのか分からなくてプロデューサーさんにも相談しました、と付け加えた。
私だって電車くらい乗りますよと答えかけて、遠方のロケ地に向かう新幹線や特急電車以外のごく普通の電車に最後に乗ったのは随分前のことだと思い至って口を噤む。

久しぶりに乗り込んだ電車は美優さんの言ったとおり空いていて、車両の端の座席に二人並んで腰を下ろすと、向かい側の座席で私たちの対角線上に座っている大学生くらいの女の子が僅かな間を置いておそらくは私に気がついたらしく、慌てた様子で隣にいる連れらしい女の子を小突いているのが見えた。
街中に出るとこういう行動はよく目にするけれど、その割に話しかけられたことがほとんど無いのはこういう職業についている身としては便利でもあり、少し寂しくもある。
私を見て一頻り静かに騒いだ二人組は今度は私の隣にいる美優さんのことが気になったらしく、たしかこの間の特番で、いや、最近はたしか連ドラに出てるなどと最近露出の増えてきた美優さんの活動内容をヒソヒソ言い合っている。
当の美優さんはプロデューサーさんからの連絡に返信だけさせてもらえますか、と言ってからスマートフォンに視線を落としていて気がつかない。
やがて結論が出たらしく、あの人は三船美優だと答え合わせをしたかと思うと可愛い、綺麗、細い、などと盛り上がり始めて、もはや小声ではないお喋りにさすがに気づいた美優さんが少し恥ずかしそうに私の方をチラリと見る。

「楓さん」

まだこういうことに慣れていないからだろう、眉を下げて困ったような様子に、大丈夫ですよと美優さんにだけ聞こえるよう囁いてから盛り上がっている二人組の方に顔を向けると、こちらを注視していた彼女たちがそれに気付いたのを確認してから軽くサングラスを上げ、にっこり微笑んでみせた。

「…!…!!」

声にならない叫びを上げ、パクパクと鯉のように口を動かしてから完全に固まってしまった彼女たちに会釈して、隣で少し慌てている美優さんに声を掛けて座席から立ち上がると開いた扉からホームに降りる。
目的の駅にちょうど到着したところだった。

「ファンサービス、ですか?」

「いいえ」

続いて降りてきた美優さんが、私にはとてもできそうにありませんと自信無げに呟くから即座に否定する。

「あの子たち、美優さんのことをほめてくれましたから」

感謝の気持ちです、と言うと美優さんはゆるゆると頬を染めて、逃げるように先を歩き始めた。

「美優さん、待ってください。美優さん、み、ゆ、さーん」

「…もう。大きな声出したら、ダメ、ですよ」

苦笑混じりに小さい子を嗜めるような調子で言われて思わず頬が緩む。叱られるのが好きだと言ったら美優さんはどうするのかしらと考えて、もっと叱られてみたいと思ったのは秘密にしておいた。



電車を乗り継いで私たちは東京タワーに着いた。
どちらかといえばデートスポットというよりは観光スポットというべきだろうここをデートコースに選んだ理由は分からないけれど大展望台からの眺めはやはり圧巻で、傍らの美優さんが控え目だけれども楽しそうにはしゃぐのが珍しく、来て良かったと心から思う。

「あ、事務所。楓さん、事務所が見えますよ」

「どこですか?」

「ほら、あっちです。もう少し左ですね」

貸し出しの双眼鏡を覗く私の手に美優さんの手が添えられ、向きが調整される。

「あ、見えました。やっぱり、こうして見ると本当に大きな建物なんですね」

見つけられたことに安堵して双眼鏡から顔を離すと思いの外近くに美優さんの顔があって驚いた。キスできそうな距離ね、と頭の片隅で考えながらそれはおくびにも出さずに平然と半歩横に離れた。
にも関わらず、美優さんがすぐにその半歩の距離を詰める。

「どう、したんです?」

動揺のあまりどもった私に気づくこともなく。

「楓さん、富士山ですよ」

双眼鏡を構えて私の肩越しに富士山を眺める美優さんは普段よりもずっと無邪気で、そして罪作りなのだった。



タワーを出た後、向かったのはまたも観光スポットである浅草寺。特に大きな行事もない平日の境内には観光客も予想したよりは少なく、お参りをしてからお土産屋を眺め、昼食には美優さんが予約してくれていたどじょう鍋に舌鼓を打ち、その後は近隣の、やはり観光スポットをいくつか訪れた。

なぜ、美優さんがこのコースを選んだのか解らないまま。



自宅の近辺に戻ってきたのは居酒屋が店を開け始めるくらいの比較的早い時間だった。昼食に引き続き、美優さんによって予約された日本料理店の個室で、ようやく今日のデートコースについて質問をする。
なぜか、それまで訊くのは憚られた。

「楓さんは、行ったことのある場所はありましたか?」

「…いえ? どこも、初めてでした」

考えてみれば私は今日訪れた場所には一度も行ったことがなかった。
上京してきて、もう随分と経つというのに。

「私も、初めての場所だったんです。全部。お店も、何もかも」

「そうなんですか?」

てっきり行き慣れている場所だとばかり思っていた。美優さんは一度たりとも地図を見ることもなく、経路を調べたりすることもなく、迷っている様子がまったく無かったのだから。

「私、OLをしているときに」

「はい」

「友人、と呼べる人がいなくて。もともと社交的な方でもありませんし、学生時代の友人も少ないものですから」

「…」

「観光地、に行ったことがなかったんです。…今は、何人も友人がいますし、スケジュールさえ合えば一緒に行ってくれるとは思います。でも」

美優さんはそこで言葉を切って微笑む。

「楓さん、は友人でもありますし、その、恋人、でもありますから、最初に。…私、楓さんと初めてのことをたくさん、一緒に経験したいんです。楽しいこと、嬉しいことを、できるだけ多く」

「…美優さん」

うまく言葉が出てこない。
だって。だって、美優さん。
私、そんなことを美優さんが考えていたなんて知りませんでした。いえ、知らないのも無理はないのですけれど。でも。

「楓さんは、どうでしょうか」

想いを伝える言葉は、たくさん知っている。
例えば物語の中。芝居でも、歌でも、それこそ星の数ほど多くの言葉があって、どれが一番想いを伝えられるかなんてきっと言えない。
けれど。

「私も、同じ気持ちですよ」

私の返事を聞いた美優さんは、この日一番可愛らしい笑顔を見せた。



店を出て、美優さんは駅の方向に足を向ける。
時間はまだ早く、仕事帰りのサラリーマン、OL、大学生、塾帰りの中高校生と思しき人影も見える。
美優さんの唇が本日のデートのお開きを告げようとするのに気が付いて慌てて先に口を開いた。

「美優さん、帰ってしまわれるんですか」

「え? ええ。今日、考えてきたことは全部、終えてしまいましたし」

「でしたら!」

いきなり大きめの声を出してしまったから美優さんは驚いて、びくりと肩を震わせた。
驚かせてしまってごめんなさい。
でも、今度は私の番です。

「美優さん、デートしてください。私の、家で」

意味は、伝わるかしら。
そう思って見つめていたら美優さんはぱちぱちと瞬きをして、それからゆっくりと、しかし街頭の灯りでも分かるほどに頬を赤らめた。

「ぁ、…は、はい」

恥ずかしさのあまり俯いてしまった美優さんの手を取り、家の方に歩き出す。自分でも分かります。
私、浮かれている。

「酔ってますね、楓さん」

「ええ!」

貴女に。

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