お嬢様、なんて呼ばれるのは性に合わないと昔から思っているけれど、家はどうやら"由緒正しい"古い家柄らしくて、無駄に広い敷地と宏壮な館がその地位を示している。
朝起きて身支度を終えると遠方から呼び寄せた家庭教師たちの授業が始まって、ほどほどにこなすと後は自由時間、夜になれば寝る、そしてまた同じ日々の繰り返し。
たまには同等の家柄の友人たちに会いに行ったり先方から訪ねてきたりもするけれど、そういうことは稀で、毎日退屈でしかたがなくて、私は自由時間になると家の使用人のうち、自分とそう年齢の変わらない子たちに声をかけては彼女たちの仕事を邪魔しないように手伝いつつ話を聞くということをして退屈さを紛らわせて過ごしていた。
幸い両親はその事については理解があるらしく、特に何も言われたことはないけれど、私はいつもどこか物足りない気持ちを抱えていた。

卯月が私の前に現れたのはこの春のことだ。
珍しく両親が自由時間に私を呼んだと思ったら、メイド姿の彼女を紹介して言うことには、彼女は家格は同格であるけれども事情があって今は零落した家の一人娘であるとのことだった。どうも大昔にご先祖様が何か恩があったようで、表立ってではないけれども長年様々な支援を続けていたという。彼女の学問の面倒も見ていたのだが、本人がもう少し本格的に勉強したいということでこの館に預かって家庭教師の教育を受けさせることになった。
そこまではわかるがどうしてメイド姿なのかと問うと、これまでもずっとお世話になっているからせめて何か役に立ちたいと、そういうことらしい。

「変わってるね」

「えぇっ、そうですか?」

笑ってそう言うと、卯月は眉を下げて困ったような顔をしたから、慌てて謝って手を差し出した。

「それじゃあ、これからよろしく」

「はいっ、よろしくお願いしますね。…えっと、お嬢様?」

「凛でいいよ」

「じゃあ…凛ちゃん」

えへへ、とはにかんで、よろしくお願いします、と改めて言った時の笑顔は今も鮮やかに覚えている。むしろそれしか覚えていない、と言ってもいいかもしれない。
その証拠にこの時の私は両親がまだ何か説明しているのを、ぼーっとして半分も聞いていなかったから。

後で落ち着いて卯月から聞いた話によると、彼女は当然メイドとして扱うわけではなく、私の世話――というより話し相手が主な仕事のようだった。要するに侍女というか友人という扱いになる。
普段は私と同様に家庭教師の授業を受けて過ごすけれど、週に何度かはメイド姿になって立ち働くつもりらしかった。

次の日から卯月は朝起きると隣に割り当てられた部屋から身の回りの世話をしにやって来るようになった。けれどもともと私は起床時間が早い方であるし、身支度だっていつも一人でしていたから特にやってもらうこともない。
最初のうちは恐縮していた卯月だけれど、そのうち慣れて、凛ちゃんはわたしにお世話されるのいやなんですか? なんてちょっとした不満というか軽口を言うようにもなった。

「おはようございますっ」

「おはよう、卯月」

「ああっ、また凛ちゃん支度終わってる」

「卯月はまだ寝癖ついてるね。直してあげるからこっちに来て」

「うう、本当ならわたしがお世話する方なのにぃ」

そんなのいいから、と鏡台の前に座らせる。
私と真逆のふわふわとした栗色の髪は癖がつきやすいようで、時折こうして直してあげることがある。卯月が話す町のことや今日の予定などを聞きながら、霧吹きで軽く湿らせた柔らかな髪に櫛を入れて梳かすのは心地よく、いつの頃からか私はこの時間をとても楽しみにしていた。

「ほら、できたよ」

「ありがとうございます、凛ちゃん」

振り返って、にこ、と微笑まれる。途端にどきりと跳ねる心臓。動揺して少し固まった私に気づくわけもなく、卯月は目の前の私の髪に触れ、指ですいて唇を少し尖らせた。

「凛ちゃんの髪、いいなあ。サラサラで、まっすぐで、すごく綺麗」

別に自分の髪がいやというわけじゃないんですけど、でも、なかなかいうこと聞いてくれなくて、なんて苦笑いする、その言葉の意味のほとんどが頭に入ってこない。

「凛ちゃん? どうしたんですか?」

呼ばれてやっと我に返ると、思いの外近くに卯月の顔があってますますぎこちなくなる。

「…あ、いや、なんでもない」

「どこか、具合でも悪いんですか?」

そう言って卯月は私の頬に触れた。今度こそ私は完全に固まった。ピシリと音がしたのではないかと錯覚するほど、石のように固まって動けない。
卯月は考え込むように暫くうーんと唸っていたけれど、無理しないでくださいね、と言って私から離れた。
その態度があまりに普通で、普通すぎて、どうやら卯月の方はまったく意識していないらしいと気がついていっそう動揺する。

「…大丈夫、だから」

何が、と思いながら、朝ごはんに行きましょう、と先に部屋を出ていく卯月を追いかけて私も一緒に外に出た。
卯月がメイドとして働いている日のことだった。
私は退屈さを紛らわせようと久しぶりに馬に乗った。
慣れないことをしたから疲れていたのだろう。館に戻ると眠気が襲ってきた。昼寝をしようと考え、こんなにいい天気なのだから外で眠ってもいいだろうと思い付く。
近くにいた仲の良いメイドに一時間程度経ったら起こしてほしいと声をかけて裏庭に向かう。裏庭は花壇のように目を楽しませるようなものは特にないけれども邪魔されずにゆっくりできるお気にいりの場所だった。よく手入れされた芝の上に乗馬服のまま身体を投げ出すとすぐに睡魔が訪れる。
そういえば卯月は馬は得意だろうか。今度誘ってみよう。そう考えて一人で微笑んでしまうくらいには眠気で自制ができなくなっていた。


ガサリ、と誰かが木の葉を踏んだ音で目が覚めた。
おそらく頼んでおいたメイドが私を起こしに来てくれたのだろうと思ったけれど睡魔は容易に去らず、私の頭は覚醒することを拒否していた。

「凛ちゃん」

卯月の声が聞こえても、まだ私は微睡み続けていた。

なんで、卯月が。ああそうか、たぶん起こしに来てくれたんだ。起きなきゃ。

そう思うけれども眠気で身体が動かない。
すぐそばで芝を踏む音がして、彼女がそこに座り込む気配がした。そのまま何をするでもなく沈黙しているのを不思議に思いながら、頭の隅ではいっそのこと一緒に眠ってくれれば良いのではないかと考えていた。

不意に瞼の向こうが暗くなった。何かが太陽を遮ったようだった。
急に影になったせいか顔の辺りがひんやりと冷たく感じられて、私は目を開けようとした。

「…凛ちゃん」

顔のすぐ上で声がして、私は飛び上がらんばかりに驚いた。けれどもなぜだか動いてはならないような気がして、ぐっと堪える。
ここに至ってもまだ私の頭は覚醒しきらず、状況がよく飲み込めなかった。
卯月が私のすぐそばにいる。彼女は私が眠っている、そう思っているはずだ。なぜすぐに起こしてくれないのだろう。彼女は私を起こしに来た、そのはずなのにむしろ息を殺して起こさないよう努めているのではないかとさえ思えた。

「…ん、っ」

不意に頬に何かが触れて、思わず声を漏らしてしまう。触れてきたのが卯月の指であるというのはすぐに理解ができたけれども、私は酷く動揺していた。
彼女が何をしようとしているのか、あるいは特に意図はないのか、それは分からないけれど今の状況にこのまま耐え続けられる自信は微塵もなかった。早々に目を開けて起き上がってしまえば良かったというのになぜ躊躇してしまったのかと自分自身に歯噛みする思いだ。
卯月の指先が頬を滑って顎にかかると、私は悲鳴を上げそうになった。このまま寝ているふりを続けるなんてできるはずもない。

「卯月ちゃーん」

遠くで卯月を呼ぶ声がして、彼女は私から一瞬で離れた。声の主は私が起こしてくれるように頼んでいたメイドだった。
私は胸を撫で下ろし、どうすれば狸寝入りに気づかれないでいられるかと必死に頭を働かせた。卯月が背後に向かって返事をしたのを見計らい、身体を起こすと片手で目を擦るようにして今起きた体を装う。

「…ん、卯月?」

「凛ちゃん! ええと、あの、今起こそうと思っていたんですけど」

「ああ、ありがとう」

我ながら大根役者もいいところだったけれど、慌てていた卯月には十分だったようで私の言動を不審に思う様子は見られない。
ほっとして立ち上がると卯月は私の髪や背中などに付いた芝を払い除けるのを手伝いながらおずおずと話しかけてきた。

「あの」

「なに?」

「凛ちゃん、髪結んでるの初めて見ます」

そうだっけ、と答えながら肩の辺りでゆるくひとつにまとめた髪の毛先をいじる。普段は下ろしているけれど、馬に乗るときは邪魔にならないように軽くまとめるのだ。

「それに、その、乗馬服姿も凛々しくてかっこいいなあ、って」

「えっ?」

背後からの言葉に耳を疑う。振り返ろうとしたけれど、卯月は私の服を掴んでそれを阻止する。卯月が今どんな顔をしているのか知りたくてしかたがないのに、それができない。

やがて服を掴んでいた手が離れ、歩き出した卯月に私は慌てて声をかけたけれど振り向いた表情はいつも通りだった。


卯月に対して私自身が特別な感情を抱いているのは明白だった。私は恋を知らないけれど、特定の人物への強い好意と、触れたい衝動と、彼女と親しくしている者への嫉妬心が恋を示しているのではないというならこれはいったい何だというのか。
幾度となく繰り返した自問の末に私はそう結論付けた。
彼女から同じ想いを向けてもらえるかどうかは分からないけれど、だからと言って諦められるはずもなく、卯月が私以外の他の誰かにこれと同種の好意を向けていたとして、彼女が幸せならばそれで良いと考えることができるほど達観しているわけでもない。

卯月は家の再興を目標としていた。学問に精を出しているのもそのためだった。
彼女は努力を惜しまず目指すものをまっすぐ見続けていられる人で、私にはそれが眩しく、美しく、輝いて見えた。私は彼女に協力を惜しまないと伝えたし、十六の誕生日を境に始められた帝王学や政治、軍事、経済についての講義を真剣に受けるようになった。

少しでも長く卯月の隣に立つために。
「遠乗り?」

「うん、卯月がよければ」

よく晴れた秋の日。過ごしやすいこの季節も間もなく去ろうとしているこの日、私は早朝からそわそわとして落ち着かなかった。
普段より随分早い時間に目が覚めてしまったし、卯月がいつもの時間に部屋を訪ねてくるまで室内をぐるぐると歩き回っていた。鏡を見ては服装や髪に乱れが無いか確認し、また歩き回り、そして何度も悩み、迷った。
決心を翻したところで結果が変わるとは思えない。ならば今伝えるべきだ。
そう自分に言い聞かせる。
今日は休日で家庭教師の講義は無く、朝食を摂りながら私は弱気になる自分自身を叱咤して卯月に提案した。
遠乗りといっても館の敷地内をぐるりと回るくらいだ。広いとはいえ馬に乗ればそれほど時間もかからないし、手入れをした小さな森の辺りには危険のある動物もいない。そして人目もほとんどない。

私は卯月に告白しようと考えていた。
決意したのは数日前のことだ。卯月が自分の屋敷に戻ることになった。単純な里帰りという意味だけではなく、両親と相談してこの先のことを決めるという意味もあるというのは私の両親からも卯月自身からも聞いている。
私は不安だった。意外にリアリストなところを持つ卯月が、そしてその両親が、その冷徹な判断によって政略的に有利となるような婚姻を結ばないと誰が言い切れるだろう。
それだけは考えたくなかった。阻止する権利が無いことは承知の上だけれど、卯月にこの想いを伝えて、せめてその心の片隅に私を留めておいてほしかった。幼い考えだと解っていても、できることならお伽噺の騎士のように私のすべてを彼女に捧げてしまいたかった。

私の提案を受けて卯月は目を逸らして少し考え、それからすぐにふわりと微笑むと快諾してくれた。
楽しみです、と言われて胸の奥が痛む。こうして共に食事を摂ることもなくなるかもしれないと思うと弱気にもなるし、申し訳ない気持ちにもなる。けれど今更止められるわけもない。
自らの選択に追い込まれながら摂った食事は何の味も感じられなかった。
綺麗だ。

卯月の姿を目にして初めに思ったのはそれだ。普段の卯月はどちらかといえば可愛いと形容するのが適切だと思うけれど、支度を終えて現れた卯月はいつもと違う服装のせいか、低い位置でまとめた髪のせいか、美しいと表現するべきであろうと思えた。大人びた空気に、彼女が年上の女性であることを強く意識させられる。
私がいるのに気がつくと卯月は顔を綻ばせて駆け寄ってきて、私の姿を上から下までゆっくりと眺めたかと思うと、肩の辺りを指先でそっと撫でた。
突然のことに騒がしくなる鼓動を落ち着かせようと目を逸らすけれどあまり効果はなく、卯月はにこにこしながら私を見ている。

「凛ちゃん、どこまで行くんですか?」

「…森の方」

照れくさくなって少しぶっきらぼうに答えたけれど卯月は意に介すること無く、私の後に続いて歩き出した。


森――と、私も含めて家族は森と呼んでいるけれど実際には林と呼ぶのが良いだろう――の近くで私たちは下馬し、馬に水を飲ませて手近な木の幹に手綱を結びつけた。休憩しようと声をかけて手袋をはずし、帽子をとって鞍に掛けていると、先にそれを終えた卯月が木立を抜けた野原の方に駆け出していく。

「凛ちゃんっ、風、気持ちいいですよ!」

慌てて追いかける私に、振り返って大きく手を振る。速度を緩めた私を見て、卯月は何か閃いたような顔をした。

「そうだ、あっちの木まで競争しましょう!」

「えっ、ちょっと、待って卯月」

言うなり卯月はまた走り出した。私は必死に追いかけたけれど不意を打たれた上にそもそものハンデが大きすぎる。
もう少しで追い付くというところで卯月が先に、目指す木の下に辿り着いて、凛ちゃんに勝ちました、と息を切らしながら嬉しそうに笑った。私もすぐに着いたけれど文句を言う余裕もなく、その場に座り込んでそれから大の字に寝転んだ。こんなに全力で走ったのなんて子どもの頃以来じゃないだろうか。

卯月がすぐ横に腰を下ろして顔を覗き込んでくると、私はいつかの出来事を思い出して慌てて起き上がろうとした。けれど卯月はそれを制して私の顔に手を伸ばす。汗で額に張り付いた髪を払って、何も言わずに私を見つめていた。
見られているのが恥ずかしくなって私は顔を背けて身体を起こした。それでもいつまでも逃げてはいられない。夕暮れまでには館に戻らねばならず、それほど長い時間があるわけではない。
覚悟を決めて私は卯月に向き直った。膝を折り、そうと気づかれないように僅かに片膝を突いて焦がれて止まない彼女の名を呼ぶ。目を合わせ、せめて今だけはその視線を逃さないようにとその手を取った。

「卯月」

何度だって名前を呼びたい。
声を掛けると振り返って、私の姿を認めると優しく微笑むのがいつだって嬉しかった。凛ちゃん、と卯月が私を呼ぶ声、何度だって聞きたい。だけど、もうそれも叶わなくなるのかもしれない。それは嫌だ。でも、それでも私は彼女に伝えたい。

「私は」

声が震える。
瞳だけは決して逸らさないように、逸らされないように願いながら卯月の右手を両手で包みこんだ。鼓動がうるさい。拍動に合わせて身体が揺れるような気がする。卯月の手を取ったままの両手を少し引いて肩の高さにまで持ち上げた。はっとしたように卯月が目を見開く。拒絶の色はない。だから驚きが消えない今のうちに。

「卯月のことが、好き」

友人としての好きではないと分かって欲しくて、卯月の目を見たままその手の甲にそっと唇を落とした。
卯月はとても驚いた顔をしていたけれど、唇を少し開いて、閉じて、それを何度か繰り返した。私は拒絶されるのが怖くて、彼女が何かを言い出すまで待つことができそうになくて、俯いて言い訳めいた言葉を吐き続けた。

「突然こんなことを言われても困ると思う。身勝手だとも思う。卯月の目指してるものの妨げになるだけだって分かってるよ。だけど私は」

不意に頬に触れられて口をつぐむ。思わず顔を上げると卯月の指先が唇の端に軽く触れた。

「黙って」

甘い響きを帯びた、小さな、でも反論を許さない声とともに唇が重ねられた。ゆっくりと一度離れると目を開けた卯月が至近距離で小さく笑って、もう一度軽く、今度は掠め取るみたいにキスされて、ようやく何が起こったのか理解する。

「わたしも、凛ちゃんのこと、好きです」

夢みたいだと思った。期待してもいいのかな、と思うことは何度もあった。けれど、そんなことはありえないと諦めていた。だって卯月には目標があって、この気持ちはその障害にしかならないと思っていたから。

「凛ちゃん、信じてない、って顔してます」

目を合わせていられなくて少し俯いた顔を、頬を両手で包み込むようにして少し強引に上げさせられる。
困ったような少し拗ねているような、でも、仕方ないなあと言いたそうな顔、あまり見たことがないそれも好きだ。誰にも渡したくない。

衝動に任せて抱き締めた彼女の腕が躊躇なく背中に回されて、ぎゅっと目を閉じる。縋り付くみたいに卯月の指先に力が込もる。

「待っていてくれますか? わたしが、戻ってくるまで」

耳許で聞こえる、少し震えた卯月の声。不安なのは私だけじゃない。卯月も。

「待ってる」

卯月の左手をとり、その薬指に口づけた。
今は形にすることはできないけれど、ほんの少しだけでも不安が消せるなら何度だって伝えるよ。

泣き出した卯月をもう一度抱き寄せて、今度は私からキスをした。

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