3. I'm in love with you.
志摩子は大学に進学してから宗教学を専攻している。
高等部の頃からの友人たちには誤解されることもあるが、シスターになるためではない。卒業する頃には再度心に問いかけることもあるかも知れないが、おそらくもう自分はその道を選ぶことは無いだろう、と志摩子は自覚していた。
ただ、自分の信仰、そして宗教というものをもう一度根本的に見つめ直したいというのが動機だった。

大学生になって初めての夏休み、志摩子は時間を持て余していた。
課題となっている長文のレポートを早々に終えた後は、もう何をしてよいか分からなかった。もちろん家の手伝いはするし、勉強も続けているが、高等部の時ほど忙しくはない。
山百合会の幹部として様々な行事の準備をし、限られた時間で勉強をし、今思えばなんと充実した時間だったのだろう。
他の大学生であれば学友と遊びに出かけるところかもしれないが、生憎同じ学部の友人たちは総じて大人しく真面目な人間が多く、学業以外の会話をすることが少ない。その上サークルにも所属していない志摩子にはそれほど親しい付き合いをする者もいなかったため、誰かと予定を合わせるようなことはなかったのだった。
同じようにリリアンに進学した祐巳さんや由乃さんはお姉さまである祥子さまや令さまと会っていたり、同じ学部の友人たちと出かけたりしているらしい。
それは同じ大学に通う志摩子のお姉さまである佐藤聖さまとて例外ではない。(というより聖は大学生になってから得た友人たちと意識して遊びに出ている)
そうでなくとも聖と志摩子はもともとあまり一緒に行動することがないし、学年も学部も違うので同じ校内でも会うことが少ない。もちろん会いたいと言えば会ってくれるであろうが。
休みに入ってから一週間程度。まだまだ長い休みをどう過ごせばいいのか、彼女は本当に困り果てていた。

彼女の妹である乃梨子は今年度薔薇さまであり、受験生であり、某有名国立大学を志望していた。いわゆる超難関大学の一つである。
学年首席の成績を維持しているとはいえ、そう簡単に合格できる大学ではない。
夏休みの前半は予備校の夏期講習にほぼ毎日出席して勉強し、後半は山百合会の仕事をこなしつつ勉強し、という予定らしく、とにかく忙しそうだった。
だから志摩子は、会いたいなどと言い出すことはできなかった。
もしそう伝えたら、乃梨子はきっと無理をしてでも時間を作ってくれるだろう。けれどそんな負担をかけるようなことはしたくなかった。
すぐ隣の大学に通っているのに、志摩子はもう二ヶ月近く乃梨子に会っていない。連絡すら、もう数週間とっていなかった。
お盆を数日過ぎた、ある日のことだった。
その日はずいぶん曇っていて、今にも雨が降りだしそうな空模様で、そしていつもより涼しい日だった。
志摩子は縁側で本を読んでいた。受講している講座の教授たちが著した本で、最近は昼食後に一、二時間程度、風の通り抜けるここでそれを読むのを日課にしていた。
論文集ではあっても抽象的な表現が多いその内容は理解するのがなかなか難しく、時間を潰すのにはもってこいのものだった。
そこに突然父が声をかけてきた。

「志摩子、お前にお客さんだ」

「お客様?」

「ああ、二条乃梨子ちゃんだよ」

「えっ」

「近くに来たから寄ったそうだ。お前、最近あんまり連絡取ってないんだろう。まったく、冷たいお姉さまだな」

ははっと笑いながら父は立ち去った。どこに通したとは言わなかったから、乃梨子が来たときはいつもそうであるように、志摩子の部屋に通してあるに違いなかった。
志摩子は逸る気持ちを押さえながら、自分の部屋に向かった。

「乃梨子」

「あ、志摩子さん久しぶり」

「ええ、久しぶりね。……少し痩せたのではなくて?無理をしていないかしら」

「やっぱりそうかな。この間瞳子にも言われたんだ。それで、すごく怒られちゃって」

「心配だからよ」

「うん」

「私も心配してるのよ」

そう言って、志摩子は乃梨子の頬に軽く触れた。途端に胸の奥で甘い疼きが起こった。またあの感情が押し寄せてくる、と気づいた志摩子はすぐに手を引こうとしたが、乃梨子の指に絡めとられてしまった。
乃梨子は志摩子の手を取りながら、ぼそぼそと話す。

「……会いたかった」

「え?」

「志摩子さんに、会いたかった」

「……」

「勉強してる間は集中できるんだけど、休憩してると志摩子さんのことばかり考えちゃって。それで、あんまり休憩も取らなくなっちゃって」

「……」

「あ、ほら、あの、もうだいぶ会ってなかったし、最近連絡も無かったからどうしてるかなって。いきなりで迷惑かな、とも思ったんだけど」

ごめん、と言って項垂れた乃梨子だが、それでも志摩子の手を握り続けている。
志摩子は自分の、早鐘を打つような鼓動に焦っていた。このまま手を握られていれば遠からず乃梨子に気づかれてしまう。
きっと自分が連絡を避けていたせいで、心配をかけていただけにすぎないのに。
こんな直截な言葉で会いたかったなどと言われたら、触れられていたら、勘違いしてしまう。

「志摩子さん?」

無言のまま応えない志摩子に不安になったらしい乃梨子は、顔を上げて志摩子を見つめた。
その距離はあまりに近かった。そして近すぎた。
志摩子は瞬間的に、激しい衝動を覚えた。握られている方の手を引いて、自分の方に引き寄せてしまいたかった。けれどそんなことはできるはずもなく、一瞬だけ瞳に恋しさを滲ませ、少し長めに瞬きをして、その痕跡をぬぐいとった。

「卒業してもそんな風に言ってくれるなんて、私は幸せだわ」

「え?あ、うん」

「忙しいのも仕方がないけれど、体を大事にしなければだめよ」

「う、うん」

「私も連絡するから、乃梨子もたまに連絡をくれるかしら」

「あ……もちろん」

乃梨子は明らかに不審がっていたが、それで良かった。自分の心の内を悟られなければ、それで良い。
志摩子は乃梨子の意識が逸れた隙にその手から逃れ、そっと息を吐いて目を伏せた。

「志摩子さん」

「何?」

「どうしてそんな顔するの。……どうして、私を見てくれないの」

「見ているわ」

「見てないよ」

乃梨子の声音には悲しみの色が含まれていた。それでも、顔を上げることはできない。目を合わせるのはもう少しだけ待ってほしい。この鼓動が落ち着くまで、もう少しだけ。

「卒業してから、あんまり会ってくれないね」

「……」

「私、忙しいからだと思ってた」

「……」

「私と会うの、嫌だった?」

「そんなことないわ」

「こっち見て言ってよ」

突然、乃梨子の両手が志摩子の頬を包み、上を向かせた。目を伏せたままだった志摩子は気づくのが遅れた。完全に油断していた。
二人は至近距離で見つめ合った。
乃梨子の瞳を見た瞬間、先程よりももっと激しい感情が、志摩子の内に沸き上がってきた。ここから早く出してくれと、どうにかしてくれと、叫んでいる。
志摩子は体の中で暴れまわる激情を必死の努力で捩じ伏せると、震える手で乃梨子の手を頬から外した。傷つけないように、そっと。

「会いたくないなんてこと、あるはずない」

必死の思いで言葉を紡ぐと、もう耐えきれなくて、志摩子は乃梨子の肩に頭を預けた。
乃梨子は戸惑った様子で志摩子の肩を抱きとめる。耳元で「ごめんね」と小さな声が聞こえた。
いつだってこうなのだ。乃梨子は自分を見てくれている。こんな風に感情をぶつけてきた時でさえも。

志摩子が顔をあげると、再び二人の視線が絡み合った。
一瞬、乃梨子の瞳が揺れたと思うと、肩を抱いている手に力が篭って、引き寄せられた。
息がかかる距離で、二人は無言で見つめ合う。
乃梨子の、空いた方の手が志摩子の耳を掠め、頬を撫で、親指の腹が唇に触れて止まった。
志摩子は思わず乃梨子のシャツの腰の辺りを掴んだ。頭がおかしくなりそうだった。
数瞬の間を置いて乃梨子の顔が近づき、志摩子は目を閉じた。
ほんのわずかに唇同士が触れあった後、乃梨子の唇が一度だけ噛むように動き、ゆっくりと離れた。
その瞬間、息が止まるほどに強く抱き締められ、志摩子は理解した。
この髪も、指も、爪の先までも、この体のすべてが、もう到底耐えられないほどに求めている。

濃密な空気と痺れるような甘い感覚に陶然となりながら、志摩子はただひたすら待っていた。

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