4. I can't live without you.
燃えるような夏を越え、物憂げな秋と灰色の冬が通りすぎた。
陽気な春がその到来を告げている。
それでも、春とはまだ名ばかりの肌寒い朝、乃梨子は普段通学に使っているのとは反対方向の電車に乗り込んでいた。
目的地は第一志望校の某国立大学。今日は合格発表の日だ。滑り止めとして受験した大学からはすでに合格通知が届いている。
大丈夫、何も心配することはない。三年前のあの時とは違うのだ。と、自分に言い聞かせて心の中で苦笑した。
リリアンでの三年間は自分を大きく変えた。おそらくは良い方向に。同年代とそれほど親しくすることのなかった自分にできた親友たち。行事の多い学校で生徒会長として奮闘した日々。妹をはじめとする、苦楽を分かち合った山百合会の仲間たち。
そして自分にとって特別な存在となった志摩子との出会い。
すべて、かけがえのない宝物だ。
人間万事塞翁が馬。第一志望の高校に進めなかったのは、今はむしろ良かったと思っている。
もちろん、だからといって今回失敗する訳にはいかないのだが。

乃梨子が合格発表の場所に着いた頃には、すでに合格者の一覧表が張り出されていた。
自分の番号があることを確認すると、悲喜こもごもの群集の中をかき分け、乃梨子は足早に会場を後にした。
いつまで喜んでいても嘆いていても結果は同じなのだから早く帰れば良いのに、と思う自分は冷たいのだろうか。
でも、今日は忙しいのだ。これから下宿先に戻って親や菫子さんに連絡したら、学校に登校して色々なところに報告しなければならない。
それから、その後は。
乃梨子はそこで思考を止めた。やらなければならないことがたくさんある。スケジュール通りに進めないと、もう何もかも放っておいて最後の目的にひた走ってしまいそうなくらい、気が急いているのは充分に理解している。
担任を始め、その場にいた教師全員が合格を喜んでくれたことに気を良くしながら職員室を出ると、丁度登校してきた瞳子に会った。

「ごきげんよう、瞳子」

「ごきげんよう。乃梨子は先生に報告?どうやら無事合格したようね。おめでとう」

「ありがとう」

瞳子はすでに志望校への推薦入学が決まっていた。両親のことに整理がつき、ようやく自分のやりたいことに素直に打ち込めるようになった親友は輝いて見える。

「薔薇の館に顔を出したら?きっとあなたの妹が待ち構えているわよ」

「うん、行ってくるよ」

再びごきげんようと挨拶を交わしてから、乃梨子は薔薇の館に向かった。修繕が入ってから日の浅い階段はあまり音がしないのでいまだに違和感がある、と思いながら階段を昇りきり、ビスケットのような扉を開けると、瞳子の予見した通り乃梨子の妹が待っていた。

「ごきげんようお姉さま。そろそろいらっしゃると思っていたところです」

「ごきげんよう。なんでわかったの?」

「今日は合格発表でしょう。おめでとうございます」

「まだ結果言ってないのに」

「顔に書いてあります」

それに、と聡明な妹は付け足して、

「お姉さまが合格しないなんてこと、あるはずありませんもの」

「それはどうも。もちろん合格したよ」

「おめでとうございます。……それで、これ私からなんですが」

彼女が自分の鞄の横に置いてあったものを乃梨子に渡す。

「これは?」

「お祝いの品です」

「あ。ありがとう」

渡された花束は彩りが美しく、センスのいいものだった。当然のように白い薔薇が含まれていて乃梨子は少し笑った。
おそらくこれらは彼女の育てたものだろう。何度か訪ねたことのある彼女の自宅には立派な花壇と温室がある。
草花に詳しい妹は珍しい植物をたくさん知っていて、乃梨子は何かあるたびに花を貰う。下宿先の自室でもその影響でいくつか育てているのだ。
秋頃からはとにかく忙しく、ストレスを溜めこんでいた乃梨子に、植物を育てろと半ば押しつけるように渡されたのは紅紫檀の盆栽だった。もう少しすれば花も咲くだろう。

「それからこれもお持ちください」

「わ、それって」

再び鞄の陰から取り出したのはピンク色の胡蝶蘭の花束。

「胡蝶蘭って育てるの大変じゃないの?しかも花束って見たことないわ」

「どのお花も育てるのは大変なんですよ。胡蝶蘭だけが特別というわけではありません」

「そっか。……ありがとう。本当に嬉しいよ」

「喜んでいらっしゃるところ申し訳ありませんが、こちらは志摩子さまに」

「え?」

「……ああ、私からではなくお姉さまからということにして渡してください」

「はい?」

「まあ花くらい無くては決まらないということです」

「……」

「そろそろ下校しませんか?」

「え、あ、はい」

乃梨子の行動を読み切っている妹は言いたいことを言うと、さっさと扉を開けて階段を下りていく。
我が妹ながらなんというヤツ。
どこか楽しげな背中を、乃梨子は恨みがましい目で見ながら追いかけた。
それなりに通い慣れた道を辿って藤堂家の門の前に立つと、乃梨子はどうしたものか、と悩んでいた。
下宿に戻って着替え、ここに来るまでは良かった。
志摩子には会ってほしいと事前に連絡してあるし、何も問題ないはず。
……だった。

「これ、どうしたらいいんだろう」

右手に抱えた花束を一瞥して、ため息をつく。
絶対に渡せと言われて無碍に断れるものでもないから携えてきたが、まさか自分がこんなものを渡すなんて、そんな気障なことをする日が来るとは思っていなかった。
だからといってこれを勝手に処分してしまうようなことは当然できない。そこまで読まれていたのかもしれない。
しかしこれ以上突っ立ったままでいるわけにもいかない、と乃梨子が決心して顔を上げると。

「乃梨子」

「うわっ」

目の前に志摩子が立っていた。どうやらおおよそ伝えた時間よりも遅くなった乃梨子を案じて門先まで出てきたところのようだ。
今日は着物ではなく白いブラウスにベージュのフレアスカート。それに春らしい薄い水色のカーディガンを羽織っている。

「驚かせてしまってごめんなさい。そろそろ来る頃かと思って」

「あ、いや。ちょっとびっくりしちゃっただけだから」

「そう。じゃあ、上がって」

乃梨子のあからさまにおかしな態度に拘泥することなく、志摩子は門の中に入っていった。乃梨子もその後に続いて入っていく。
お邪魔します、といって上がり框で靴を脱ぐと、そのまま志摩子の部屋に通された。
この部屋に入るのも久しぶりだ、と思うと乃梨子は俄かに緊張する。

あの夏の日。
あれから二人はそれまでと同じ、いやそれ以上にごく普通の姉妹に戻ったようだった。
目と鼻の先にお互いの通う校舎があり、時たま顔を合わせる。何かの折にたまに電話で連絡をする。それくらいの、卒業した姉と在校生の妹、という範疇を忠実に守っていた。
しかしそれは見た目上の話で、実際には正しくない。むしろあの日を境に変わってしまったのだと二人とも理解していた。
あえて外でしか会わないようにしていたのもそのせいだ。こんな風に、あの時と同じように二人きりで会ってしまったらもう止められはしない、ということを理解していた。

「志摩子さん。私、今日志望校の合格発表だったんだけど、無事に合格したよ」

「おめでとう。乃梨子は本当によく頑張っていたから、良かったわ」

目を細めて喜んでくれる志摩子の笑顔は高等部のただの姉妹だった頃と同じものだ。
でも本当は違う。二人は心の奥でお互いを想う気持ちが、色を、形を、変えていることを知っている。

「それで、その……話がしたくて」

「ええ」

笑顔をすっと消した志摩子の真顔が、その瞳が乃梨子を見つめる。今は解る。その瞳が何を言っているのか。何を思っているのか。

「ずっと考えてた。受験勉強を理由にして考えないようにしていたけど、本当はずっと心の隅っこで考えてた」

「何を?」

「志摩子さんのこと。いや、志摩子さんへの私の気持ち」

「……」

「勘違いしてるんじゃないかって思ってた。私は人を好きになったことなんかなかったし。それから……志摩子さんは信仰もあるし、こんな気持ち迷惑じゃないか、って」

「そんなことないわ」

「うん」

少し悲しげな表情をする志摩子の手を、乃梨子は安心させるように握る。

「ずっと考えて、煮詰まってて、それから思ったんだ。この気持ちは、志摩子さんを想うこの気持ちは、私の中のどんな感情よりも綺麗な感情だって」

あなたを想う心に嘘も偽りも無いんだ。ただ、あなたのことが、

「志摩子さんのことが、好きなんだ」

乃梨子は右手に抱えたままだった花束を良く見えるように差し出した。ピンク色の胡蝶蘭。
志摩子は瞠目してそれを見つめている。

「こういうの渡すなんて、らしくないけど……受け取ってほしい」

お願いします、と言いながら頭を下げる。こんなの本当に、最高に、らしくないと思いながら。
志摩子には話さなかったことがある。
本当はもっと悩んでいたことがある。
本当は、不安だった。
あの日ここで、この場所で、気持ちが重なった気がした。でもそんな気がしただけかもしれないと思っていた。
流されただけだったのかもしれない。自分が一方的に奪っただけなんじゃないか、とさえ思っていた。
信仰を理由にするような人じゃないと、教えを盾にするような人じゃないと解っていても、この人にはマリア様がいるから。
だからこれを、いや、この気持ちを受け取ってくれるかどうかなんて本当は分からない。

俯いているたった十秒くらいの時間がとても長く感じられた。
もしかすると本当にあれはただの勘違いだったんじゃないか。乃梨子が絶望の淵に沈みそうになった頃、漸く志摩子が乃梨子の手から花束を受け取った。
ハッとして顔を上げると、頬をほんのりと染めた志摩子が見つめている。

「ありがとう。その、私も、乃梨子のことが好きよ。……私は、あなたに恋をしている」

志摩子は耳まで真っ赤に染めて、それでも真剣な表情で、ゆっくり、はっきりと告げた。

「私もずっと悩んでいたわ。こんな気持ち、迷惑じゃないかって。でも、止められなくて」

「……志摩子さん」

乃梨子は志摩子の手を引いて、そっと抱き締めた。あの時のように力任せにではなく、できる限り優しく。

「乃梨子」

「ん?」

「キスをして」

「えっ」

「だって、ずっと待っていたのよ」

あの時から。

拗ねるような口調に少し苦笑して、乃梨子は志摩子に軽く口付けた。そっと離れると、志摩子は恥ずかしそうな顔をして乃梨子の腕から逃れた。
照れ隠しのように背を向けると、抱えていた花を空いている花瓶に挿し、水差しから水を注ぐ。

「これ、貰ってきたの?」

「あ、うん」

誰に、とは言わないでも二人の間では通じる。乃梨子が花を贈るなんて、誰が持たせたのか自明すぎる事だ。

「この花の花言葉は知っていて?」

「たしか……幸せが飛んでくる、だっけ?」

何かの行事で胡蝶蘭を用意したときに、たしか妹はそんなことを言っていた。だからお祝い事には定番なのだとか。

「……やっぱり知らなかったのね」

「え、違うの?」

「それも合っているけれど、胡蝶蘭は色によって違うのよ。ピンクは……あなたを愛しています」

「……」

「本当に綺麗ね。今度お礼を言わないと」

志摩子が花瓶を窓際に置くと、爽やかな風が入ってきた。日光を受けて胡蝶蘭の花弁がキラキラと輝いている。

「乃梨子が好きよ。大好き」

窓枠に凭れた志摩子が歌うように言う。花よりももっと綺麗な笑顔で。

志摩子さんが好きです。大好きです。

心の中で大声で返しながら乃梨子は志摩子に近付いていった。

end.

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