『誰も傷つけずに生きていくことなんて、不可能なんだ』

頭の中でずっと、響いている。
正論だと思う。
だけど言い訳に過ぎない。

私も、この人も、それはよく解っているのだ。
黒の扉
「祥子」

背の高い門をくぐり抜けたところで、祥子は誰かに呼び止められた。
いや。誰か、というのは卑怯に過ぎる。
なぜなら祥子には考えるまでもなく、それが誰なのかということは分かっていたから。

「お久しぶりです、聖さま」

そう言って一礼する。目上の者に対する敬意はまったく失われていない。
だが、その挨拶はあまりに丁寧すぎた。
祥子の苛立ちなど簡単に伝わってしまったようだ。顔を上げると、聖は大げさに肩をすくめてみせた。

「何か、御用でしょうか」

辛うじて表情を変えることは防いだが、今度ははっきりと言葉の中に棘が含まれた。
しかしそれを隠すこともできないくらいに、彼女は苛立っていた。

勝手な人だ、と思う。

これまで一定の距離を置いてきたのは何のためだったのか。
現状維持が暗黙の了解だったというのに、この人はそれを自分に破らせようとしている。
腹が立った。

「偶然見つけた知り合いに声をかけるのが悪いの?」
「偶然?」

では、昨日も今日も、姿を見かけたのはなぜなのか。
わざわざ自分が一人の時を見計らって声をかけた、ということではないのか。

今更、なぜ。

「…失礼します」
「送るけど」
「結構です」
「もうバスは行ったよ。それに、みんな見てる」

気がつくと遠巻きに高等部の生徒たちの輪ができていた。
紅薔薇さまと先代の白薔薇さまが話をしている姿は、あまりに目立つのだ。

「車あるから、送る」

聖は、今度はそっけなく言って背を向けた。
祥子は唇を噛み締め、その後ろ姿を睨みつけていた。
いつの間にか、雨が降り出していた。
日暮れにはまだ早いが、ヘッドライトをつけている車も多い。
タイヤが道路にたまった水を弾く音が聞こえる。
指呼の間、ともすれば触れそうな位置にいるというのに、聖も祥子も一言も発しない。

祥子は、意地でも自分からは話しかけないつもりでいた。
このまま、何も変わらないまま、家にたどり着ければいい。
ただそれだけ。
きっと言葉を交せば、引き返せない。
そのタブーだけは犯したくない。
だが三つ目の信号で停まった後、聖は祥子の家とはまったく違う方へとハンドルを切った。

「聖さまっ!」

なぜ、動かそうとするのだ。
私たちの関係さえ変わらなければ。
私たちが感情に走りさえしなければ!

誰も傷つけずにいられるというのに……?

掌に爪が食い込むほど堅く拳を握った。
怒りと、これはきっと悲しみ。



車が路肩に停まった。
聖は、ゆっくりと口を開いて、言った。

「私は、祥子みたいに割りきれない」

感情を無理矢理に押さえた、暗く、低い声は震えていた。
祥子の手に、よりいっそう力がこもる。

…痛い。

私がどんなに我慢していたかなんて、この人は知らない。
誰かを不幸にすると解っていて、なぜ、踏み出せる?

「勝手すぎる!」

必死で守ってきた境界線。
それが一方的に侵される。
握り締めた手の甲に涙が一つ、二つと落ちていく。

「私は、誰も、傷付けたくはないのです…」

綺麗事を、と人は言うだろう。
仕方ないのだと、そう言うだろう。
それは祥子にも解っているのだ。

「誰も傷つけずに生きていくことなんて、不可能なんだ」

瞬間、乾いた音が車内に響いた。
その音に祥子は少し怯える。
誰かの頬を張ったことなど、初めてだった。

「詭弁です!」

そんな単純な言葉で片付けることなど、できない。
どれだけ耐えてきたか。
何度踏み出そうとしたか。


聖が、祥子の右腕を掴む。

「誰を犠牲にしたっていい!」

ああ、きっと。
待っていたのだ。
私は、待っていたのだ。
この言葉を。
それを聞きたいがために、私は。

私は!
乱暴な口づけ。

こんな事にならなければ、よかったと。
本気で思っていたかどうか、もうわからない。
ただ、ワイパーがフロントガラスを擦る音がうるさい。

黒蜜のような甘さが口の中に広がる。
その黒い感覚に、祥子はずっと震えたまま――――。

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