初夏
こんな悩みを抱えるなんて思っていなかった。

青々と茂る木々の隙間から漏れる初夏の日差しの清冽さに志摩子は目を細めた。
二人の関係が明確に変わってから、そう時が経っているわけではない。
だからこれはもしかすると時が解決してくれる問題かもしれないし、時を経てもずっと持ち続けるものなのかもしれないが、それは今の志摩子には分からない。

二人で出掛けた帰り、駅までの道を並んで歩きながら隣の乃梨子に少しだけ遅れて、前後に揺れる彼女の手を見ていた。

何の事は無い。深刻な悩みなどではなく、志摩子は手を繋ぎたいという、ただそれだけを考えているにすぎない。
別に初めての事ではないし、二人が高等部にいた頃は決して珍しいことではなかった。
それなのに、何故だか今になって躊躇われる。

ふう、と軽く息を吐くと、乃梨子がこちらを向いて首を傾げた。

「どうしたの、志摩子さん」

「え?……ああ、何でもないわ」

「そう?」

曖昧な返事に、乃梨子は少し怪訝な表情を浮かべたが、すぐに柔らかく微笑んで志摩子の手をとった。
まるで心を読み取ったかのような行動に、志摩子は驚いて立ち止まる。乃梨子の方はそんな志摩子の反応に驚いたようで、軽く目を瞠って同じように立ち止まった。

こんな何でもないことで驚くなんてどうかしている。

小さな驚きがお互いの表情から消えると、自然と視線が絡み合い、二人の間に甘ったるく淡く色づいた空気が流れる。

今すぐキスをして欲しい。

道端にも関わらずそんなことを思う。
誤魔化しようもない、正直すぎる願望に、本当にどうかしていると心の中で呟いた。
見つめ合ったまま、目を逸らすこともできないでいると、不意に乃梨子は志摩子の手をぐっ、と引っ張って歩き始めた。
真一文字に結ばれた唇に不安を覚えながら手を引かれて歩き続けていると、乃梨子は建物と建物の間の狭い路地に入っていく。

「乃梨子?」

どうしたの、と訊こうとすると、乃梨子は志摩子と向かい合って立ち止まった。

「志摩子さん」

低い声が耳朶をくすぐる。
思いの外、近くにある乃梨子の顔に鼓動が高鳴り、頬が熱くなる。
乃梨子は目だけきょろきょろと動かして辺りに誰もいないのを確かめると、なにか言おうとして止め、逡巡するような素振りを見せた。
意図を察して志摩子の鼓動は更に高鳴る。そのまま見つめ合っていることに耐えられなくなり、早く、と心の中で叫んだ。お願い、早く、と懇願するような思いで乃梨子を見る。
自分から行動すればいいというのに、何故かそれができずに乃梨子を待っている。
そして、遂にどうしようもなくなった志摩子は繋いだ手に力を込めて目を閉じた。

刹那、乃梨子が息を飲む気配がして、それからすぐに唇が重ねられる。
人目につかないとはいえ、路傍でこんなことを求めてしまう自分をはしたないと頭の隅で思いながら、暫時の口付けに志摩子は酔いしれた。

「……ごめん」

唇を離すとすぐ、乃梨子はばつが悪そうな顔をした。

「どうして?」

「我慢、できなくて」

我慢できなかったのはお互い様だということを気づいていないというのだろうか。乃梨子は本当にすまなそうに眉尻を下げて悄気ている。
大丈夫よ、と宥めながら表の通りに戻り、二人は駅に向かって再び歩き始めた。
会えないときは会いたいと思う。一緒にいるときは触れたいし、触れられたいと思う。きっとそれは自然なことなのだろう。
けれどその想いの、あまりの強さに志摩子は戸惑った。
自覚している以上に強く願っているのに、結局、乃梨子に触れることを躊躇ってしまう自分にも。

二人がけの、座椅子タイプのソファに体を預けていた志摩子は、それまで読んでいた本を閉じた。
普段ならばお互い思い思いの行動を取っていても気にならないのに、最近は悩んでいるせいかあまり集中できない。
少し離れて隣に座っている乃梨子は何も気にしていないようで、熱心に仏像の写真集を見ている。リラックスしていて、あくまでも自然な様子に、やはり、自分がおかしいのかもしれないと少し落ち込んだ。
気づいて欲しいと催促しているようで、ため息をつくことさえできずに浅く息をする。

いったい何を迷うというのだろう。
お互いに想い合っていることを知っているのに、キスだって何度も交わしているというのに、何が自分を躊躇わせるのか分からない。

惑い疲れた志摩子は、意を決して乃梨子の腕に触れた。
顔を上げて不思議そうに小首を傾げてこちらを見る仕草に、志摩子の心は掻き乱され、その心のままに顔を寄せて、それから、やはり躊躇ってしまった。
どうして、という思いに、困惑と憂いを帯びた視線を向けると、乃梨子は熱の籠った瞳で志摩子を見つめ返した。

「……だめだよ、志摩子さん」

「え?」

「キス、したくなる」

至近距離で甘く囁かれる声と、挑発するような視線にぞくりとする。
頬から顎を伝い、首筋を滑る指先がひどく生々しく、志摩子を煽り立てた。
互いの唇を隔てるわずかな空間すらもどかしい。キスがしたい。
このまま見つめ合っているだけなんて、どうして耐えられるというのか。

「……して?」

掠れた声で囁いた途端、わずかな距離が一瞬にして詰められ、唇が重ねられた。
触れるだけではなく、啄むように、そして貪るように繰り返される口付けはこれまでで最も激しく、頭の芯がぼうっと痺れるような感覚を覚える。
乃梨子の指先は耳元から首筋を通って鎖骨の辺りまでを行き来し、もう片方の手は腰に回され、強く引き寄せられて二人の体は密着する。
それでもまだ足りない、もどかしいという思いは強まるばかりで、志摩子は乃梨子の軽く開いた唇の隙間からそっと舌を差し入れた。
乃梨子は微かにぴくりと反応したが、すぐに舌を絡ませてくる。
粘膜同士が触れ合い、絡み合う感触は完全に思考を狂わせて、もう何も考えられない。

気づけばソファに倒れ込み、目を潤ませて肩で息をする乃梨子を見下ろしていた。

「志摩子、さん」

鼻先が触れ合うくらいのわずかな距離。
呼吸は荒く、心臓は全力疾走したときのように激しく脈打ち、触れたところから感じる互いの体温が気恥ずかしさと後ろめたさのような感情を覚えさせる。

乃梨子が好きだ。
正直に、例えようもないくらい、本当にどうしようもないくらい、乃梨子が好きだ。
だからいずれこんな風に強く求めてしまうだろうということを心のどこかで感じていた。そして恐れていた。
間違っているわけではないのに。

「乃梨子、私……」

どこまでも際限無く求め続ける自分自身の心が怖い。
けれど、こんなに近くにいるのにまだ足りない、もっと近づきたい、もっと欲しい。
抑えきれない衝動が胸を焼く。

乃梨子は小さく笑って、黙り込んだ志摩子の頬に触れた。
ただそれだけのことなのに。
くらくらと目眩がするほど強い感情を覚え、堪らず口付けた志摩子の体を、乃梨子が更に抱き寄せる。
忙しなく体を弄る乃梨子の手が熱い。

静かな室内で、時折漏れる互いの声と衣擦れの音だけが二人を支配していた。


春が来て、桜は散り、若葉が芽吹く。季節は巡る。
私たちの夏はもう、すぐそこまで来ている。

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