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志摩子は自室の机でテキストを前にため息を吐いた。
今期受講しているラテン語講座はなかなかにハードだ。
事前にテキストを訳して講義に臨むのだが、如何せん量が多い。せめてもう少し少ない量であれば、と思わずにはいられない。

ふう、ともう一度ため息を吐いてから再び辞書を開く。
この辞書はお姉さまである佐藤聖さまから譲ってもらったものだ。聖さまが受講したのは入門講座だけだったので、これは初級者向けの薄めの辞書だが、使いやすいので常用している。
これに掲載の無い場合は、傍らに置いてある自分で購入した方の辞書を使用しているのだ。
一度何かでそれが話題になった時、乃梨子がふうん、と面白くなさそうな顔をしたのを覚えている。

乃梨子と言えば。
今日は、仏像鑑賞に出掛けているはずであった。
今週バタバタとして忙しかった志摩子は、普段ならばすでに終えているはずの予習がまだで、一緒に行くことができなかった。
本当だったら一緒にいられたのに、と悔やまれてならない。

一時間ほど神妙にテキストの翻訳を続けていると、机の隅に置いた携帯電話から軽快なアラート音が発せられた。
迷わず手にとってロックを解除するとチャット風のレイアウトに、やはり乃梨子からのメッセージが表示されている。

『撮影OKだったので送ります』

添付されているのは仏像であった。
当然である。仏像を見に行ったのであるから。
ちなみに小寓寺の本尊と同じ阿弥陀如来である。

画面をそのまま開いていると、続け様に五枚ほど画像が送られてきた。
最初に送られてきたのは正面から撮ったものだが、この五枚は皆角度が違う。

『同じ姿なのに角度によって印象が違うよね。私は二枚目のやつが好き』

しかし残念ながら志摩子には二枚目と三枚目の違いがわからなかった。どちらも阿弥陀如来の右側から撮ったものだろう。たしかに角度は違うのだが。

返答に困り、とりあえず予習に戻ろうと携帯電話を置いて再びテキストに目を移す。

三十分ほど経って、キンコーン、とまたアラート音が鳴る。

『ここの十一面観音様、すっごく優しくて綺麗だよ!今まで見た観音様の中でも五本の指に入るね!』

ずいぶん興奮しているらしく、添付写真は七、八枚送られてきた。
たしかにたおやかで優しい顔をしている。

志摩子は再びテキストに戻った。既読スルーというやつである。
抜粋とはいえマルティン・ルターの95ヶ条の論題は難題だ。普通の文章であっても訳すのは難しいのに内容が内容なのだ。集中しなければ。

さらにしばらく経ってまたアラートが鳴る。
志摩子はマナーモードに切り替えた。
しかし今度はブーブーという振動音が気になってしまう。
彼女はわずかに眉間に皺を寄せた。

とりあえず、と画面を確認する。

『今日は志摩子さんのお父様に紹介してもらったお陰で助かりました。ありがとう』

『けど、志摩子さんに会えないのはすごく寂しい』

『会いたいよ』

「……」

先ほどまでとは打って変わった内容に、知らず頬が火照るのを感じる。
乃梨子はずるい。

志摩子はふと思い立って、今日初めての返信を送る。

『え、これラテン語?志摩子さん私分かんないよ』

『翻訳してみたらいいわ』

『?』

『あの、志摩子さん』

『何?』

『今から行っても良い?』

『いいわよ』

志摩子は再び携帯電話を置いて、翻訳の作業に戻った。
二時間もすれば乃梨子がやってくるだろう。それまでに目処をつけておかなければ。

志摩子は楽しそうにペンを走らせた。



Ego vis ad occursum.
Te amo.

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