海と砂浜とあなたと
真夏には海水浴客でごった返す海も、九月の半ば近くになれば、閑散としている。
黄昏時と言っていいくらいの時間帯は特に。

近くの寺と教会を見て回った帰りに、海を見ようと言い出したのは乃梨子だ。
それから一番近い海岸を探して、電車とバスを乗り継いで辿り着いた。
先を歩く、機嫌の良さそうな背中を見ながら、計画を立てないでぶらぶらするのも良いものだと志摩子は思う。
風もそれほど強くなく、波の音は穏やかで心地よい。

そういえば、あまり海を見ることは無かった。

本当に幼い頃に一度来たことがあるだけではないか、と記憶を辿って驚く。
志摩子が小学校に上がるか上がらないかくらいの年の頃、高校の寮から帰省していた兄が連れていってくれた。
その後は、電車の車窓から数回見たことがあるだけだ。

記憶の中の海は印象が薄く、今こうして現実にみる海とは全く違うもののように思える。
しかし千葉の出身で、年の近い妹のいる乃梨子にとっては海を見ることはそれほど特別なことではないのかもしれない。

「志摩子さん」

立ち止まって海を眺めていると、乃梨子が振り返って呼びかけた。
志摩子は駆け寄って並び、差し出された手を取って歩き出す。

彼女の横顔を見ながら、どこまで歩こうとしているのだろうと考えて、別にどこでもないかもしれないと思う。
目的は無く、ゆっくりとただ歩く。

今日は、朝からずいぶんと歩き回ったから疲れている。それは二人とも同じだった。
けれどこうしてあてもなくのんびりと歩くのは久しぶりで、贅沢な時間だと思えた。

「楽しそうね」

「うん?楽しいよ」

だって志摩子さんがいるからね、と言う声が風に乗って届く。

海を見に行こう、と乃梨子は言った。

けれど彼女は海をあまり見ていない。どちらかというと砂浜と、志摩子の顔を等分に見ているくらいで。

しばらく歩いてから、乃梨子は立ち止まって手を離した。
陽がだいぶ傾いている。

「私さ、やってみたいことがあるんだ」

「何?」

乃梨子はそれに答えず、何度か深呼吸して、思いっきり息を吸ってから海に向かって叫んだ。

「志摩子さんっ」

「えっ?」

「好きだーっ!」

思い切り大きな声で叫ばれた言葉は全く予想外で志摩子は呆気にとられて固まった。
乃梨子はその顔を見て一人で笑い転げている。

志摩子は目を伏せた。頬が熱い。夕日に照らされているからわからないだろうが、きっと赤くなっているはずだ。

時折こんなふうに、いきなり、想像もできないくらい率直に。
乃梨子は志摩子に好きだと告げる。
それはいつだって不意打ちで、心の準備なんてできていないときなのだ。
照れ隠しに、少しだけ呆れたような口調で声をかける。

「……もう、乃梨子ったら。帰るわよ」

「はーい」

ひとしきり笑って満足したらしく、乃梨子はまた先に立って、来た道を戻っていく。
乃梨子の後に続いて歩き出した志摩子は、その背を見つめながら、ふと、細いな、と思った。
志摩子より幾分身長の低い彼女は、小柄ではないが華奢と言ってもいいくらいに細い。
薄い背中に、抱き締めたいという想いに胸を突かれて立ち竦む。

「志摩子さん?」

志摩子が追い付いてこないことに気がついた乃梨子が不思議そうにこちらを見ている。
うまく言葉が出てこない。
十メートルくらい先で、帰ろうよ、と乃梨子が微笑んで、待っている。その表情に胸の奥がきゅっと痛いくらいに締め付けられた。

ああ、私は。

志摩子は笑って、思い切り叫んだ。

「乃梨子ー!」

乃梨子がぎょっとした顔をする。

「大好きー!」

叫び終わった志摩子は駆け寄って乃梨子の腕の中に飛び込んだ。

「し、志摩子さんっ」

乃梨子は志摩子を抱き止めながら、慌てたようにキョロキョロと周りを見回している。幸いと言うべきか、周囲に人影はない。

「……びっくりしたよ」

「あら、先に驚かせたのは乃梨子の方でしょう」

「そう、だけど。志摩子さんが同じことすると思ってなくて」

至近距離で話しているのが気恥ずかしくなったらしく、乃梨子が視線を外した。

キスできる距離だ、と思った。

「ねえ、乃梨子」

志摩子はほんの少しトーンを落として囁き、指先で乃梨子の耳の辺りに触れた。キスしたい、の合図。

「志摩子さん……」

乃梨子は眉尻を下げて、困ったなという顔をした。
それでも志摩子が笑みを浮かべて待っていると、彼女は観念したらしく志摩子の頬に手をかけてそっと口付けた。

触れるだけのキスでは物足りず、志摩子が唇を噛むような動きをすると、突然乃梨子が深く口付けてきた。舌で歯列をなぞられて力が抜けそうになる。

「……帰ろう」

唐突にキスを中断すると、乃梨子は少し乱暴に手を引いて歩き出した。
どうやら火をつけてしまったようだ。



黄昏の赤い空が二人を照らしている。
波の音が響いている。

砂浜を出る前に志摩子は一度だけ海を振り返った。

いつかまた、ここに来て、今日という日を思い出して笑い合おう。

そう思いながら。

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