小夜時雨の夏の日に
(……読めない)

出会ってから三年くらいになるけれどやっぱり志摩子さんの考えていることははっきりとは分からない。
乃梨子は玄関の扉を背に考える。

春から住んでいるこの家は菫子さんの伝手で格安で借りられた住宅街の一軒家だ。
内部の設備はそれなりに新しいものが入っているが、外観が古く庭は荒れ放題。おまけに大家さんは気難しいお婆さん(菫子さんのお友だちらしい)で、知人の紹介限定なのでなかなか入居できない。因みに庭の整備は入居条件の一つになっている。
そういう環境面もありながら、学業の傍ら仏像愛好家という趣味(いや、宗教美術を専攻している身としては実益も兼ねている)を続けるためにはとにかく時間が足りない。お金は必要だが鑑賞に出かけるための時間が失われては本末転倒ということで、アルバイトは集中して一気に稼げそうなものに限定している。
当然ながら志摩子との時間をできる限り削らないように、という理由もあった。

それはともかく。
現状乃梨子が悩んでいるのはこういうことである。
昨年数えるほどしか会っていなかったことの反動なのか、それとも二人の関係が変わったからなのか、それなりに忙しい時間をやり繰りして乃梨子は志摩子と週一以上のペースで会っていた。
が、あれから進展がないのだ。端的に言うとキスから先に進んでいない。
男子学生じゃあるまいしそんなにガツガツしなくても、と思ってはみるものの、そのあたりどうなんだろうかと考えてみることもある。
大体、志摩子がこれ以上を望んでいるかがわからないのだ。汚れのない微笑みを見ているとそういう欲望があるようには見えない。

(性欲とか無さそうだしなぁ)

乃梨子だって若くて健康な一女子であるからして、なかなかこの状況はキツいものがある。
自分と志摩子の関係を知っているのは数人いるが、さすがにこの手の事は相談できない。
できるとすれば志摩子のお姉さまである佐藤聖くらいだが、散々からかわれた挙句、「襲っちゃえば?」とかなんとか適当なことを言うに決まってる。しかも弱味を握られるというおまけ付きで。

そんなこんなで水面下で悩んでいるうちに大学一年目の夏休みがやって来た。
全講義の前期試験とレポート提出が終わったその日、志摩子と乃梨子はM駅の近くのカフェで待ち合わせていた。
そこで志摩子がこんなことを言い出した。

「都合のいいときでいいのだけれど、乃梨子のところに二、三日泊まらせてもらっても良いかしら」

「えっ」

「今履修している通年講義で出されてる課題のレポートなんだけれど、二つの宗教を選択して色々まとめなければならないの。それで、仏教の各宗派の概説書、乃梨子持っていたでしょう?」

「……うん、持ってるね」

「それ使いたいの。でも乃梨子も今期のレポートに使うのでしょう。借りっぱなしというわけにもいかないから」

「そう……それならいつでもいいよ。バイトもしばらく入れる予定ないから、明日とかでも大丈夫」

「本当?じゃあ明日行くわね」

そういうわけで本日を迎えた。
課題を進めながら、自分はなんと真面目なのだろうと考える。
レポートの資料集めをしたり、少し読めるようになってきた古文書を訳したり、それこそ聖さまが知ったら「本当に勉強してるよ」と大笑いしそうだ。
志摩子さんは志摩子さんで使いたいと言っていた書籍を捲っては典拠となりそうな部分をメモしたり、乃梨子のパソコンで図書館の所蔵を調べたり、まったくブレない。
こういうところは似た者同士なのだ。勉学は好きだから結構集中してしまう。
真剣な表情。メモを取る指先。
志摩子さんは乃梨子の視線に気付かない。
期待しているのは自分だけかと自嘲して、乃梨子は課題に戻った。

実は志摩子が泊まって行ったことはまだ一度もない。期待するのも無理はないのだ。
風呂上がりの頭をタオルで拭きながら天気予報を見るのが、リリアン在学中の頃から何となく習慣になっている。

「明日の天気は雨、雷を伴って一時激しく降るところもあるでしょう」

家の中に缶詰状態なのはさすがに不健康だから、明日は午後から出掛けたいと思っていたのに。
どうしようかと思案しながら髪を乾かして、扇風機の風に当たっていると風呂場から志摩子が戻ってきた。

「さすがに暑いわね」

「うん、こっちきて扇風機使うといいよ」

「ありがとう」

二人ともエアコンの風があまり得意ではないので冷房はそんなに使わない。けれど湯上がりの体にこの暑さは少々厳しいから、乃梨子は温度をやや高めに設定して運転させる。一時間程度はつけておいてもいいだろう。
ふと見ると志摩子の露になったうなじと首筋にどきりとした。風呂上がりの、しっとりとした肌の様子が、見てはいけないもののような気がして慌てて目をそらした。

「ドライヤー貸してくれる?」

「あ、そこの引き出しに入ってるよ」

言いながら、乃梨子は自分でドライヤーを手にとって志摩子に渡そうとして、ふと思い付く。

「志摩子さんの髪、私が乾かしてもいい?」

「え?ええ、いいけれど」

「やった。一回やってみたかったんだ。志摩子さんの髪柔らかくて気持ち良さそうだし」

「そう。じゃあお願いするわ」

ドレッサー代わりの、ローチェストの上に置いた大きめの鏡の前に志摩子を座らせると、乃梨子は手で髪を梳きながらドライヤーをあてて乾かしていく。
最初のうち、少しくすぐったそうにしていた志摩子は徐々に慣れて、乾かし終わる頃には若干眠そうだった。

「乾いたよ。やっぱり長いと時間かかるんだね。大変だなぁ」

「ふふ。乃梨子は実家の妹さんにもやってあげたことあるの?」

「うーん、小さい頃はね。うちは両親共働きだから帰りが遅くなったときとかそうだった」

「そう、だから上手なのね。なんだか安心して眠くなっちゃったわ。本当の姉妹ってこんな感じなのかしらね」

そう言って屈託なく笑う様子に、乃梨子は奇妙な思いをした。
姉妹のない志摩子の感想としてはおかしくない。いや、リリアンでロザリオの授受を行って姉妹となっていた関係から考えてもおかしくはない。
でも。

「後悔、してる?」

「え?」

「私とこういう関係になったこと」

乃梨子は右手で志摩子の髪の毛先を遊ばせながら訊く。不貞腐れたような様子を装いながら、本心では真剣に問いかける。
志摩子の背後で膝立ちしている自分の顔が映っていないことを確認してから、鏡の中の志摩子を見つめた。

「そう見えるかしら」

「どうかな」

答えると、志摩子が座ったまま乃梨子の方を向いた。そのまま腕を引っ張って座らせ、視線を合わせてくる。

「不安になったの?」

「……うん」

「悪かったわ。そんなに深い意味はなかったのよ」

言って、志摩子は乃梨子の頬に指を滑らしてから唇を重ねた。啄むようなキスを繰り返してから、志摩子の舌がゆっくりと入り込んでくる。
珍しい、と思いつつ乃梨子がそれに応え、息のあがった頃。
パジャマ代わりのTシャツの裾から志摩子の熱っぽい手が入り込み、背中に回った。細い指が直に背骨を下からじわじわとなぞるように動くのに堪らなくなって、慌てて乃梨子はキスを中断した。

「し、志摩子さん。ちょっとこれ以上はダメだよ。そんな触られてると、その、我慢できなくなっちゃうから」

未だ背中から離してくれない手に意識を集中しながら一気に捲し立てる。

「我慢って……どうして?」

「だって、あの、その、私は志摩子さんのこともっと触りたいし。もうこの際だから白状するけど、口では言えないようなこともしたいって、思っちゃってる、から」

ああ、まったくこんなことを言うはめになるなんて。欲望まみれの自分が憎らしい。
乃梨子が自己嫌悪に陥っていると、志摩子が少しはにかみながら微笑みかけてきた。

「私だって……もっと乃梨子に触れたいし、触れられたいと思っているのよ。でもあなたはそんな素振りも見せないし、私だけこんなに欲深い気持ちでいるのかと思っていたわ」

「えっ」

「レポートだって口実なの。もちろん課題の件は本当だけれど、そうしたら泊まれるでしょう。それで、その……」

顔を赤らめながら俯いてしまった志摩子の指先がまだ背中でもじもじと動いているのにそわそわした気持ちを押さえて、乃梨子は今度は自分から口付けた。
何度か繰り返してから、唇を離し、そのまま志摩子の首筋に吸い付いた。

「ん……乃梨子……」

顎の辺りから首筋を通って鎖骨まで下り、再び同じ場所を通って耳まで来るのを繰り返していると、志摩子の息も乱れていく。
何度目かに耳元に来たとき乃梨子は上がった息を少し整え、囁いた。

「ベッド、行く?」

「……ええ」
外から聞こえる雨音に乃梨子は目を覚ました。
部屋の中がまだ暗い。覚醒していく意識のなかで、まだ夜なのだとおぼろげに思いながら乃梨子が目を開けると、こちらをじっと見つめていた志摩子と目があった。

「起こしてしまった?」

「……ちょっと目が覚めちゃっただけだよ」

「そう」

志摩子が髪を梳いてくれるのに安堵した乃梨子の意識はまた夢の世界に沈んでいきそうになる。
布団に残滓の匂いがあって少々気恥ずかしさを覚えるが、気にしないで子供のように志摩子の胸元に頭を寄せた。
頭の上で微かに笑う声が聞こえて、その腕に包まれると、幸せで、幸せすぎてちょっぴり切なくなった。
こんなに幸せなのにどうしてこんな気持ちになるんだろうと不思議に思う。

「……不思議ね」

「え?」

「私、今すごく幸せなのに、なんだか少しだけ寂しいのよ」

どうしてかしら、と呟く声には確かに寂しさが混じっていた。乃梨子は顔を上げて、志摩子を抱き寄せた。

「今、同じこと思ってたんだ」

「そうなの?」

「でも、二人とも同じ気持ちなんだから、もう寂しくなんかないよ」

幸せだから、失うのが怖いんだ。
高校生の頃みたいに簡単に約束なんかできないけれど、私は志摩子さんのことが大好きだよ。
本当に、心から。

あなたのことが。

いつだって一番欲しい言葉をくれる、あなたが。

「大好きだよ」

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