miss each other
志摩子は、乃梨子が大学進学により同年代に同じ趣味を持つ友人を得たということを、素直に喜んでいた。
それから特に話を聞くことがなかったため気に留めていなかったが、一月ほど前だったろうか、連休を利用して友人たちと仏像観賞旅行に行ってくると言い出した。
ある寺院の本尊が数十年に一度の御開帳という話で、それは是が非でも行きたいだろうと、志摩子は軽く「気を付けて行ってらっしゃい」と返事をしたのだが。
それから、あまり会っていない。
乃梨子が旅費が足りないだとか、そんなことを言って短期のバイトを増やしたからだ。

(会いたい、けれど)

それがただの我儘だということを知っているから、言えるはずもない。
ただ、普段は朝晩の二回程度しか見ない携帯電話の画面を、このところ頻繁に確認してしまう。
忙しくて会えないときにはいつも、夜に一度だけ、簡素なメールが送られてくるのを知っているのに。
「志摩子の悪い癖ね」

祥子さまが優雅に紅茶を啜ってから呟いた。
こうして二人きりで話すのはずいぶん久しぶりな気がする。
学内のカフェの隅でぼんやりしていた志摩子の前に現れた祥子さまは「元気がないわね」と声をかけて志摩子と向かい合わせに座った。

それにしても、志摩子は言った覚えは無いのだがなぜか仲間たちは自分と乃梨子の関係を知っている。
一度祥子さまに尋ねてみたことがあるが「見ればわかるわよ」と面倒くさそうに言われてからそんなに分かりやすいだろうかと真剣に悩んだこともある。

それはさておき祥子さまが訊いたのはたった一言、「最近乃梨子ちゃんと会っているの?」で、あまり会っていませんとしか言っていないのに、そんな答えが返ってくるのは意外だった。

「あなたは昔からそういうところは変わらないわね」

「そういうところ?」

「遠慮しすぎるところ。もう少し、思ったように行動してもいいと思うわ」

祥子さまは立ち上り、「それじゃ」と行ってしまった。

(思ったように、ですって)

人にそう言われたからといってすぐ行動できるのだったら最初から苦労はしない。もって生まれた性格というのはなかなか変えることができないもので、志摩子は一人苦笑するだけだった。



それから数日経った夜、自室でそろそろ寝ようと支度していると、テーブルに置いた携帯電話がブルブルと震えた。マナーモードすら切っていなかったようで、着信音は鳴らない。
画面を見ると、予期した通り乃梨子の名前が表示されていて、少し緊張しながら受話ボタンを押した。

『志摩子さん、ごめん、もう寝てた?』

「いいえ、まだ起きていたわ」

久しぶりに聞く声に、心が華やぐのを感じるとともに、どうも外にいるらしい乃梨子が心配になる。

「今、外なの?」

『うん。昨日メールした通り例の御開帳に来てて、今ホテルに帰るとこなんだけど』

「そう。もう夜遅いし、気を付けて」

『ありがとう。……あ、友達来ちゃったからもう切るね』

「ええ」

『明後日には東京に帰るから』

でも、この週末もバイトなんでしょう?

喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、志摩子は自分から電話を切った。
ガヤガヤと何人かが話す声と、乃梨子を呼ぶ声が聞こえて、もうそれ以上聞いていられなかった。

世界は二人だけで構成されているわけじゃないよ。

いつかの乃梨子の言葉が胸を締め付ける。

解っている。
解っている、けれど。

自分の知らない誰かと笑っている姿を想像したら、それだけで心細くなってしまった。

乃梨子の世界は広くて、ちゃんと誰かと繋がっている。
自分はどうだろうか。周囲が見えているだろうか。自信がない。
物理的な距離と同じくらい、心が離れているような気がして、寂しかった。
都合がよければ会えないかと連絡が来たのはその週の土曜日の正午を回った頃だった。
いつもと同じ簡素なメールは、バイトが夕方まであるからその後待ち合わせたい。もしよければ自分の最寄り駅に、という内容だけだったが、それでも志摩子の心は明るくなった。



改札の見える駅の入り口に立って雲行きの怪しい空を眺めていると、ついにポツポツと雨が降り始めてしまった。
待ち人来たらず。
時間よりもずいぶん早く着いてしまったせいで、待つ時間も三十分近くになろかという頃、改札の方から歩いてくる姿を見つけた。
乃梨子は志摩子に気づくと駆け寄ってきた。

「ごめん、お待たせ」

「慌てないで」

傘を広げながら、行こうと促すと、乃梨子は空を見て「失敗した」という顔をした。

「うわ、降ってきちゃったんだ。傘持ってないのに」

「珍しいわね。少し狭いけれど一緒に入るといいわ」

「ありがとう」

志摩子の傘に遠慮がちに入ってきた乃梨子は入れてもらってるんだからと言って自分で傘を持った。
さほど大きくない傘の下で、お互い濡れないようにするには普段よりかなりくっついて歩く他ない。
肩と肩が触れ合い、その距離に少し戸惑う。
会うのが久しぶりなせいか、そのまま二人とも話をすることなくしばらく無言で歩き続けた。

「この前友達の家に忘れてきちゃったからなあ」

信号待ちをしている時、乃梨子がぽつりと呟いた。

「え?」

「傘。しばらく天気が良かったから油断してた。ごめんね」

「……いいえ」

志摩子はその言葉になんとなく心に引っ掛かりを感じたが、ちょうど信号が青に変わったので再び歩き始めた。
先程と同じように無言で歩き続けながら、何が気になったのかを考える。
別のどうということもない、こんな風に家まで歩いているときの会話なんて挨拶のようなもので、特に意味なんかない。
でも、友達の家に忘れてきた、って。
そこまで考えて、自分の心が何と言っているのか解ってしまった。
考えれば考えるほど、心におりが溜まっていくような感覚に襲われる。

二人は会話のないまま歩き続け、志摩子は気がつくと玄関の前で、鍵を開けようとしている乃梨子の手から自分の傘を受け取っていた。

このまま一緒にいたらこの感情をぶつけてしまいそうだ。

そう思うと、もう落ち着いていられなかった。

「乃梨子」

「何?」

「私、今日は帰るわ」

「えっ?」

「ごめんなさい」

返事も聞かず、志摩子は背を向けて走り出した。

「志摩子さん!」

いつの間にか強く振りだした雨の中を、水溜まりも構わずバシャバシャと派手に音を立てながら走り続ける。ヒールの高い靴を履いてこなくて良かったと、どこか場違いなことを思いながら、路地を駆け、少し大きめの通りに出たところでようやくスピードを落とすと、僅かな間を置いてすぐに腕を掴まれた。

「志摩子さん」

走ったせいで息は上がっているが、冷静な声が耳朶に響く。
見ると、傘も持たないで追いかけてきたせいで、乃梨子はもうかなり濡れてしまっていた。
その様子に胸が締め付けられるように痛んだが、それでも素直になることができない。

「離して」

「どうして」

「帰る、って言ったわ」

「嫌だ。帰さない」

雨の中、細い路地の入り口で口論を始めた二人の横を、犬の散歩をする人が迷惑そうにすり抜けていく。

気まずい沈黙。
ここは場所が悪い。

志摩子はため息を吐くと、乃梨子に傘を差し掛けて手振りで歩くよう促した。
玄関を入って扉を閉めると、志摩子は決まりが悪くなって立ち竦んだ。乃梨子も靴を脱ごうとはせず、志摩子の隣に立ったままでいたが、やがて口を開いた。

「帰るなんて、どうして。久しぶりに会えたのに」

答えることはできない。
こんな気持ちを口に出すことなんてできない。
どうしてもっと連絡をくれなかったのかとか、友達には会うのに自分には会ってくれなかったとか、嫉妬と独占欲にまみれた言葉ばかり浮かんできて、喉が詰まって声が出せない。
こんな気持ちが自分の中にあるなんて知らなかった。
こんな、こんな気持ちが。

志摩子は乃梨子を見た。乃梨子も志摩子を見ていた。
乃梨子は傷ついた表情をしていた。
そっと触れた手は冷たくて、そのまま背に腕を回して抱き締めた。

「濡れちゃうからだめだよ」

慌てて離れようとするのを、腕に力を込めて逃がさないようにする。
雨の匂いが鼻腔をかすめ、切なくて涙が込み上げてきてどうしようもなくなって。
つい先程帰ると言ったばかりなのに、離れたくないと強く思う。
自分の心なのに、どうすればいいのか解らない。

「志摩子さん」

志摩子に抱きすくめられたままの乃梨子が、諦めたように軽く息を吐いて口を開く。

「言ってくれなきゃ解らないよ」

苦笑を含んだその言葉に、本当にそのとおりだ、と思う。
言葉にしなければ伝わらない。
好きだという気持ちも、悲しいという気持ちも、寂しいという気持ちも。
躊躇しながら、志摩子は言葉を紡ぐ。

「私、乃梨子に会いたくて堪らなかった」

「……うん」

「だけど、あなたは普段と何も変わらなかったから」

乃梨子はそうじゃないのかもしれない、って。思ってしまって。

抱き締めていた腕を解いて、志摩子は乃梨子と目を合わせた。
伝わるようにと願いながら。

「友達、両親、兄弟姉妹、世の中にはたくさんの人がいて、私たちはお互いが唯一の人じゃない。それは解っているの。でも、私には……私の世界にあなたがいないなんて、そんなの」

あなたがいないと歩いていけないわけじゃない。
けれど、あなたがいないと、それはとても苦しい。

あなたがいない世界は色褪せて、心は乾いた砂の城のようにサラサラと音を立てて崩れ去ってしまう。

どうして、こんなに好きになってしまったのだろう。

志摩子は気まずくなって目を伏せた。

「……同じだよ。志摩子さん、私だって、同じだよ」

乃梨子は今度は深いため息をついて、小さく笑った。もしかしたら今日初めて笑顔を見たかもしれない。

「だから、気にしないで良いから。会いたいときは言ってくれた方が嬉しい。夜中だって飛んでいくから」

少年のようなさっぱりとした表情で乃梨子が笑う。

また、遠回りをしてしまったと思いながら志摩子も笑顔を返し、乃梨子の頬に指先で触れると、口付けた。
冷たい頬、冷たい唇。
こんなに冷えてしまったのは自分のせいだと思いながら、温めるように唇に舌を這わせていると、乃梨子の手が志摩子の胸に伸びてきた。

「だめよ、乃梨子は冷えてるんだから」

お風呂で温まってこないと、と腕を掴んで阻止すると、上目遣いで抗議するように唇を尖らせた。

「志摩子さんが温めてくれれば良いのに」

乃梨子が部屋に上がるのに続いて、志摩子もようやく靴を脱いだ。
おとなしく風呂場に向かう後ろ姿に、一言投げ掛ける。

「続きは後でね」

一瞬の間を置いて声にならない叫びが聞こえたが、志摩子は楽しそうに笑うのみだった。

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