九月のラムネ
風に揺れる枝がさわさわと優しげな音を立てている。

九月。
人影のまばらな大学校舎は、しんと静まり返っている。
図書館を利用しに来た志摩子は家に真っ直ぐ帰る気になれず、木の下に置かれたベンチの端に腰を掛けた。

志摩子は大学の敷地内でこの場所が一番好きだった。
ただゆっくりと時間を過ごしたいとき、落ち着いて何かを考えたいとき、志摩子はこの場所を選んだ。
今日はそのどちらでもないけれど。

こうしてひとりきりになると、悲しいとも苦しいとも違う感情に支配される。
それが怖くてならないのに、それでもそれが必要な気がしてならない。

あの日のことが、忘れられない。

繰り返し再生される記憶が、息苦しいくらい胸を締め付ける。
同じ光景が頭の中で流れ続けている。肩を掴む手の感触も、言葉も、すべて。
もうなにも考えられなくなるくらい、何度も。



不意にカタン、と自分の腰掛けているベンチに振動を感じて、志摩子は我に返った。
驚くことは、なかった。

「元気……なわけないか」

わずかな沈黙の後、聖が呟くように声を掛けてきた。
志摩子は同じベンチ、反対側の端に座る聖に顔を向けた。
どこで買ってきたのか、手にラムネの瓶を持っている。小さく揺らすとキン、と高いガラスの音がして、志摩子は終わったばかりの夏を思い出す。

聖は真っ直ぐ前を向いていて、志摩子を見ようとはしない。

「詳しいことは知らないけど」

ほい、っという声とともに小さな緑茶のペットボトルが投げて寄越され、志摩子は慌てて受け取った。
器用なことに聖は前を向いたままで、慌てた様子を察したらしく軽く笑った。
志摩子が礼を言って蓋を開け、ひと口飲むと聖はまた口を開く。

「結論は出ているんでしょ?」

「ええ、でも」

離れた校舎にいるであろう、彼女のことを想う。
高等部で共に過ごした二年間、いつも笑顔を絶やすことなく傍にいてくれたのに、どうしてだろう。今は彼女の苦しそうな顔しか浮かんでこない。

ずっと悩んでいた。消せない想いを耐えるようにずっと抱え込んでいた。
だから本当は嬉しかった。
忙しい時間を縫うようにして会いに来てくれて、キスされて、抱き締められて、嬉しかった。
本当に。

でも。

「……でも……!」

きっと、今よりももっと苦しめることになる。
誰よりも傍にいてほしいと願っているのに、その願いが苦しめることになる。

ただ、彼女のことが好きなだけなのに。



ふーっと息を吐く音がして、いつの間にか目の前に聖が立っていることに気が付いた。
顔を上げようとした志摩子の頭を、聖は軽くぽんぽん、としてから、子どもでもあやすように撫でる。

「志摩子」

呼ばれて顔を見ようとするが、聖の手は見るなとでもいうように上を向かせまいとする。
志摩子は抗うことなく、聖のもう片方の手にあるラムネの瓶にぼんやりと視線を落とした。
瓶の中のガラスの玉がキラキラと輝いている。

「自分の気持ちは偽っちゃいけない」

聖の言葉で志摩子の脳裡にフラッシュバックのように蘇るもうひとつの記憶。

あの日、玄関で靴を履いた乃梨子が一度だけ振り返った。逆光で表情は判らなかった。

『志摩子さんは待っていてくれるかな』

歩き出した背中に、声を掛けた。彼女は一瞬立ち止まったが、振り返らなかった。
未練を絶つように。


「私、待っている、って」

「うん」

志摩子が紡ぐとりとめの無い言葉の断片に、聖は説明を求めたりはしない。いつだってそうだった。

「それでいい」

言い聞かせるような言葉と共に離れていく聖の手を、志摩子は両手で握りしめた。
聖に、なにも返せない。

「ありがとうございます」

心から感謝を伝えることくらいしか、できない。

立ち上がった志摩子の前、ようやく正面から顔を見せた聖が笑っている。
ラムネの瓶が揺れて、ガラスの玉がカラン、カランと綺麗な音を響かせる。

「私もラムネ、飲みたいです」

「ん?じゃあ奢ってあげよう」

歩き出す聖の、空いた方の手を志摩子が握る。一瞬、聖はおや?という顔をしたがすぐに握り返した。

「乃梨子ちゃんに妬かれちゃうな」

「これくらいじゃ、妬きません」

「お熱いことで」

高い、高い、吸い込まれそうな空の下。
夏の名残のラムネの瓶が、もう一度キン、と高い音を立てた。

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