Chapter 4.
季節はいつの間にか秋を通り越して、冬になろうとしている。
冷えた空気の中、二人の靴音だけが響いている。

駅までのそれほど長くはない距離を歩くこの時間が、なんとなく気まずく感じられるようになったのはいつの頃からだろう。
お互いそのことに気づいているのに、何も言い出せないまま歩き続け、駅の手前の交差点で軽く声を掛け合って別れる。
そんなことを繰り返している。

それはいつまで続くことだろうと考えながら、蓉子は隣を歩く聖を盗み見る。
彫りの深い整った綺麗な横顔。見慣れてはいても美しいと思う。
そう言ったら、聖はどんな反応を返すだろうか。

「蓉子」

無言で歩いていた聖が突然こちらを向いたので、蓉子は内心少し慌てた。
なんでもない風を装って返事をする。

「何?」

「蓉子の住んでるとこってここからどれくらいだっけ」

「五分くらいよ」

「そっか」

答えると、聖はまた前を向いて黙ってしまった。
何か考えている様子が気になるが、それを訊いてもいいものなのか分からずに逡巡していると、逆に聖の方が気になったらしくまたこちらを向く。

「いや、どこだったかなって思って」

「江利子と一緒に来たことあるでしょう」

「一年半も前のこと覚えてないわよ」

大学生になって間もない頃、一人暮らしを始めた蓉子を訪ねて二人が連れ立ってやってきた。
聖の言うとおり、もう一年半以上前のことになる。

三人のうち一人暮らしをしているのは蓉子一人だ。
江利子は当然家を出させてもらえないだろうと思ってはいたが、聖が家を出なかったのは意外だった。
出たい、とすら言わなかったというのを聞いてもっと意外だと思ったが、妙に納得もした。
学生生活をやり直すのと同様に、両親とももう少し歩み寄ろう、そう思っているのかもしれない。

「よかったら、寄っていく?」

そんな言葉が思わず口を突いて出て、蓉子は自分自身に慌てたが、もう遅い。
わずかに瞠目した聖が立ち止まって蓉子を見ている。

「いいの?」

「ええ」

まだそんなに遅い時間じゃないから、と言い訳のように呟いて蓉子が歩き出すと、少し遅れた聖が後ろから声をかけた。

「少しだけ、寄っていく」
ガチャリ、と音がして鍵が開く。
鍵を差し込むのに失敗したり、回す方向を間違えたりせずに鍵を開けられたのは我ながら上出来だと思う。
もうすっかり慣れて無意識にできるはずの行動がスムーズにできなかったら、動揺していますと言っているようなものだ。
そもそも誰かが傍にいる状況で鍵を開けるのは初めてなのだから仕方がない、と思いながら、きっと聖以外の人ならばこんな風にはならないだろうとも思う。

ドアを引いて入るよう促すと、聖は「お邪魔します」と小声で言ってから中に入った。

「コーヒー置いていなくて。お茶くらいしか出せないけれど」

「いや、お構いなく」

寄っていくと言った後からさらに口数が少なくなった聖は、蓉子が勧めたクッションに腰を下ろすと、音量を絞って付けたテレビをぼんやりと眺めていた。
まるで借りてきた猫のようだと思いながら、用意した紅茶をローテーブルの上に置く。

「ありがとう」

ずいぶんぼんやりしているから気づかないかと思ったがそんなことはなく、ごく普通に受け答えをする様子に蓉子は困惑する。

聖が何を考えているのかは分からない。
ただ、一緒にいる間、時折今と同じように考え込むことを蓉子は知っていた。

「蓉子」

呼ばれて、紅茶に落とした視線を引き上げるようにして聖に向ける。
蓉子と目が合うと聖はほんの僅かに視線を強めた。

射抜くような視線。
こんな風に見つめられたことは記憶にない。
それなのに、不思議なことに何の感情も覚えることなく、ただ聖の瞳が綺麗だと思いながら蓉子は見つめ返す。

やがて聖は視線を外して、軽く息を吐いた。
呪縛が解けたように、蓉子も聖から目を逸らす。

それから二人は、紅茶を飲み終わるまで一言も発することはなかった。



玄関で靴を履く聖の背中を眺めながら、蓉子は言いようのない感情が込み上げてくるのを感じた。
いつも別れ際に感じるものより遥かに強い感情に、うまく言葉が出てこない。

「それじゃ」

ドアハンドルに手を掛けて、聖が振り返る。
気をつけて、と笑って送り出したいのにそれができない。

もし今、帰らないでほしいと言ったら聖はどうするだろうか。

「聖」

やっとの思いで、絞り出すように声を出す。
もう一言でも声を出したら涙が零れてしまいそうで、それ以上は何も言うことができない。

泣く理由なんてひとつも無いというのに。

黙りこんだ蓉子を見て、聖はドアに掛けていた手を下ろした。

「蓉子」

感情が押さえられたような低い声にどきりとする。
聖の瞳が何かを言おうとしている。

しかしそれ以上聖は言葉を発することなく、その代わりに手を伸ばして、蓉子の手に軽く触れた。

瞬間、時が止まったような気がした。
そして、何かが変わるような気がした。

けれど、聖の手はすぐに離れていった。

わずかな温もりだけを残して。

「聖」

呼びかけた蓉子に、ドアを開けた聖はもう一度振り返り、微かに微笑んで出ていった。

パタン、と小さな音を立てて静かに閉まったドアの外、聖の靴音が遠ざかっていく。

ねえ、聖。
あなたは、今、何を言おうとした?

問いかけることが出来なかった言葉を心の中で紡ぐ。

胸の奥が苦しくて仕方がなくて、蓉子はその場に膝をついて座り込んだ。
聖の温もりが残る手にもう一方の手で触れると、堪えきれなかった涙が零れ落ちた。


いつかこんな日が来るような気がしていた。
長くは続かないような気がしていた。
それなのに私は大切なことから目を逸らして、表面上は波風の立たない、聖との穏やかな日々を必死に守り続けていた。
瓦礫で作った紛い物の「いつも通り」が、いつ崩れ去るとも知らないで。

会いたいと、傍にいたいと願い続けるなんて理由はひとつしかない。
本当はそんなこと、とっくに解っていた。
誰でもない、聖を想って、私は。



秋の深い、冬の始まりの夜。
二人の間で何かが決定的に変わったことを蓉子は知った。

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