おねだり上手になったよね
「う、わっ?」

いきなり何かに視界を覆われて、かなり驚いてしまった。
すぐにそれが背後から伸びてきた卯月の手だということに気がつき、両耳のイヤホンを取って軽くため息をつく。

「卯月。なにしてるの」

「だって、凛ちゃん全然気づかないんだもん」

新曲の音源を聴きながら譜面を見ていたから卯月の帰宅に気がつかなかった。
そのことが不満だったらしく、後ろから私の顔を覗き込んでくる卯月の唇の先は少し尖っている。

「ただいまは?」

「ただいま、凛ちゃん」

不満そうな顔から一転、悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべて隣に座った卯月に、おかえり、と返して彼女の耳辺りの髪に軽く触れる。
ほとんど習慣みたいになっているそれは、一度疑問に思ったらしい卯月に、これって凛ちゃんの癖なのかな?と訊かれたことがあって、その時はそうかもねと曖昧に答えたけれど何となく理由は分かっている。

要するに私はいつだって卯月に触れたい気持ちがあって、でもどうしても恥ずかしいとかそういう気持ちの方が先立ってしまうから、こんな風に人前でも簡単に触れられる髪で触りたいという欲求を誤魔化そうとしているんだと思う。
誰に憚ることもない、二人で暮らしている自宅の中ですら同じなのはどうなんだろうという疑問がない訳じゃないけど、そう簡単に変えられるものじゃない。

「凛ちゃん、いい匂い」

「ちょっと卯月…」

そんな私の気持ちなんてまるで意に介さない卯月は、年月を重ねるうち二人きりになると結構すぐに甘えてくるようになった。
手に持っていた譜面はいつの間にか奪われてテーブルに置かれているし、腰には卯月の両腕が回されて逃げることもできない。
鼻先を私の首元に擦り付けてずいぶんご機嫌な様子だけれど、その行動が私をどれほど動揺させるのかなんてことはこれっぽっちも考慮に入れられていないのだ。
心中穏やかではない私は、冷静さを保とうと頭の中で先程まで聴いていた音源を再生し譜面を描きながら、されるがままとなる。

「ねえ、もしかしてお酒飲んできた?」

微かにアルコールの匂いがする。

「飲んでないよ?」

「…」

「…い、一杯だけ」

はあ、とため息をついて脱力すると、卯月はごめんなさいと呟いた。別に怒っているわけじゃないのに。

「別にいいよ。卯月の好きにしても」

「で、でも、凛ちゃんお酒飲んでくると機嫌悪いじゃないですかぁ」

「お酒飲むこと自体を止めたい訳じゃないよ」

自重はしてほしいけど、そこまで束縛したいわけじゃない。

「気を付けてほしいだけだから」

「うん…」

「えっと、いいよ? ご飯食べてくるって連絡は貰ってたし」

正直面白くないのは確かだけど、それは嫉妬にすぎないと自覚しているから最近は強く出られない。
それに私は卯月が出る必要がない飲み会は断っていること、出席してもそれほど酔わないように飲む量をセーブしていること、帰りは自分でタクシーを呼んで一人で帰宅していることを知っている。

「お風呂、入ってきなよ」

「凛ちゃんも一緒に入ろう?」

「え、私もう入ったんだけど」

「じゃあもう一回。ねえ、凛ちゃんお願い」

至近距離からの上目遣い。

だから。
やめてほしい。そういうことをするのは。

こんな風に時々現れるおねだり上手な卯月は私の理性を容易に使い物にならなくしてしまうし、にも関わらず私の羞恥心というのがなかなかに手強いものだから、欲求と板挟みとなって結局のところなにもできないで泣く泣く独り寂しく眠る他無くなってしまう。

「やだ」

「えーっ?」

目を逸らして拒否するとあからさまに不満ですという声を出されて、卯月に甘い私は少しだけ心が揺れる。
その様子に勘づいたらしい卯月はむーっと唸り声を上げて私をじっと見ていたかと思うと、にんまりと笑って口を開く。

「じゃあキスして」

「え。なに、いきなり」

「したいんだもん」

「言われるとしづらいんだけど」

「凛ちゃん、お願い」

「う…」

さっきと同じような上目遣い。
でも今度は明らかに誘うような色が含まれていて、ああ、こういう表情をするようになったのはいつからだろうと頭の隅で現実逃避をしながら、勝敗の見えている葛藤という無意味な闘いを繰り広げている。

拒否できないくせに行動に出られないことに焦れた卯月が目を閉じてキスを待つ体勢になると、もう心の中の色々なものが崩壊した私は彼女の耳の後ろに手をやって、やや乱雑に引き寄せると最初から深く口づけた。
軽いキスを期待していたであろう卯月は当然、んっ、と困惑したような少し苦しそうな声を漏らして離れようとするけれど逃さない。煽っておいてそんなのは狡い。後で一緒にお風呂に入ればそれでお願いをきいたことにもなるし、と頭の中の誰かに言い訳する。

眉間に皺まで寄せた卯月が、こういうことするつもりじゃなかったのに、と不服そうな声を上げたのはベッドの上だった。

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