1. I feel something for you.
「白薔薇さまは進路、どうされるの?」

最後の試験科目、数学が終わった後の解放感からか、興味津々、という感じで訊いてきたのは昨年からのクラスメイトたちだ。

リリアン女学園はそのままリリアン女子大に進学する生徒が多いため、受験システムが整っていない。
例年、三年生は夏休み明けには多くの人が進路を決定するという。外部の大学を受験するならば、もっと早く決めなければならない。
だからこの時期――学期末試験の試験休みに入る直前ともなれば教室のそこかしこで話題に上る。三年生にお姉さまがいる二年生ともなれば、それは当然かもしれなかった。

「……ええと、まだ聞いていないの」

乃梨子は最初に声をかけてきた級友に答えた。

「まあ、そうなの?でも乃梨子さんが聞いていないの、わかるわ。お姉さまが卒業されることなんて考えたくないもの」

「そうよね、特に白薔薇さまと乃梨子さんは仲睦まじくていらっしゃるから」

「紅薔薇さまと黄薔薇さまはどうなさるのかしら」

などと、たった一言答えただけなのに、勝手にどんどん話が進められてしまい、乃梨子は慌てた。
何か言おうとしたちょうどそのとき、担任の教師が教室に入ってきて、彼女たちは自分の席に戻っていった。
乃梨子は志摩子さんの進路について考えたことがなかったわけではない。それどころかいつも頭の隅のどこかでぼんやりと考えていた。

「乃梨子さん」

呼ばれて、はっとすると前の席のクラスメイトがプリントの束を持った右手をひらひらさせている。
ごめん、と慌てて受け取り、1枚を自分の机に置いてから後ろの席に手渡す。
プリントの一番上には「二年次進路希望 第一回」と書かれていて、下に大学名や学部等を記載する欄が設けられている。
一年生の時には無かったが、どうやら進路希望を書けということらしい。
そういえば中学の時の同級生はすでに昨年、進学先を書かされたと文句を言っていた。受験が終わったばかりなのにまた受験の話か、と。

説明を聞きながらプリントを眺めていると、一番下に「その他の進路」という欄があった。

「その他の進路は進学以外を希望した人のための欄です。よくあるのは留学とか、あまりないけど就職の場合」

なるほどそういうことか、と思っていると、うちの学校だと宗教関連もあるわね。と一言付け足された。乃梨子は眉間に皺を寄せてため息をついた。
夏休みに入っているとはいえ、お盆にはまだ早いこの時期、新幹線は空いている。
そのうえ早朝、始発の電車に乗り込む人はそう多くなく、自分たちの乗った車両には客はまばらだ。
スーツ姿のサラリーマンが忙しげにキーボードを叩く音や、時折どこからか広げた新聞をめくる音が聞こえてくる他は静かなものだった。

二人掛席の通路側に座った乃梨子は何をするでもなく、電光掲示板に流れるニュースを眺めていた。手元の鞄には読みかけの文庫本が入っているが、読もうという気にはなれない。
前座席の網ポケットに挟みこんだパスケースに入れた切符の行き先を眺めてから、隣に座る志摩子さんに気づかれないように、そっと息を吐いた。

昨年の自分なら相当浮かれていたに違いない。
一泊二日とはいえ志摩子さんと泊りがけの旅行だ。
その上到着駅は乃梨子がまだ訪れたことのない土地だったから、仏像が見れなくたって未知の土地への好奇心も手伝って志摩子さんを困らせるくらいに、はしゃいでいただろう。

けれど実際には、はしゃぐどころか今朝、新幹線の切符を受け取ってからほとんど会話らしい会話をしていない。
何を話せばいいのかわからなかったし、今話しかけたら自分が聞きたくない言葉が返ってくるのではないか、そう考えると怖くて聞くことができない。
チラリと横の席を窺うと、志摩子さんは乗り込んだ時と同じ姿勢で外の景色を眺めていた。


一学期の終業式の帰り道、二人きりになった時だった。乃梨子は思い切って進路はどうするの、と訊いてみたのだ。
志摩子さんは一瞬顔を強張らせて乃梨子を見た後、目を逸らして立ち止まった。

乃梨子は、しまったと思った。やはり訊くべきではなかったのだ。昨年の祐巳さまだって二学期末まで訊くに訊けずにいたではないか。
志摩子さん自身がまだ結論を出していないかもしれないこの時期にどうして口に出してしまったのだ。
なんと迂闊なことだろう。
乃梨子が一人自分自身を苛んでいると、志摩子さんは何かを決心したような表情になり、口を開いた。

「夏休みなんだけれど」

「え?」

「予定が入っていたら悪いのだけれど、乃梨子についてきてほしいところがあるの」

一緒に来てもらえるかしら。
そう言われて、乃梨子に否やはなかった。



「――子。乃梨子、起きて」

名前を呼ばれて、乃梨子は自分がいつの間にか眠っていたのを知った。車内には乗り換えのアナウンスが流れ、周囲の人が慌ただしく身支度をしている。

「……ああ、ごめんなさい」

途中駅から乗ってきたのだろう、東京を出たときよりもずいぶんと多くの人が降りる準備をしていた。
乃梨子は荷物棚に置いた二人分の旅行鞄を取り上げると片方を志摩子さんに渡し、手早く支度をして車外に出た。
二人は新幹線を降りた後、駅構内で軽食を取り、在来線の特急電車に乗り込んだ。
二時間程電車に揺られ、今は緩やかな坂道を歩いている。東京を出たのは早朝だったが、腕時計を見るともう午後二時を回っていた。
その間二言三言、行き先についての話をしただけで、相変わらず二人の間に会話はない。

夏の日差しが強く照り付けるこの時間帯は、少し歩くだけでも汗が噴き出して止まらなくなる。
この辺りは観光客も少なく、炎天下を歩く物好きは自分たちだけのようだった。
周囲を見渡しても、少し先を歩く志摩子さんの背中とアスファルトにゆらゆらと陽炎が立ち上る様子が見えるだけで、木陰もなければ人影も無い。
志摩子さんは時々振り返って乃梨子に気遣わしげな表情を向けてくる。
乃梨子はそれに大丈夫だよ、というように頷くと、また歩き出した。

未だどこが最終目的地で、何をするために行くのかは聞いていなかったが、乃梨子は電車を降りた段階でぼんやりと気が付いていた。
きっと志摩子さんは何かを確かめるためにここに来たのだ。

「たぶん、あそこだと思うわ」

黙々と歩いていた志摩子さんが独り言のように発した言葉に、乃梨子は視線を上げた。
数百メートル先に、古い建物が見える。灼熱の空気の中、気のせいか、そこだけ異空間のように穏やかな空気が宿っているように感じた。
もしかして、と思った。
観光用のパンフレットで見るような建物とは違う。リリアン女学園にあるお聖堂のようなものでもない。
それでも住宅街の中にひっそりと立つそれは、確かに教会なのだろう。

額の汗を拭きながら、乃梨子は小走りで志摩子さんに追いついた。
志摩子さんは乃梨子の方を見て、眼だけで微笑んだ。


目的の建物に着くと、志摩子さんは木陰の下で立ち止まり、ここで待っていて、と告げて敷地の隅にある別の建物の開け放されたドアから中に入っていった。
志摩子さんが何事かを告げると、神父さんだろうか、お爺さんと言ってもいい年齢の男性はにこにこして、案内しますと先に立って歩きだした。
外にいた乃梨子は慌てて会釈しながらついていく。

横にある通路を抜けて、建物の裏を進むと、人一人が通れるような細い坂道が現れた。
柔らかな草の生えた小道で、アスファルトを歩き続けた足には心地よい。
太陽を遮るように、道の左側には常緑樹が立ち並んでおり、真夏なのに涼しく、まるで森の中のような錯覚に陥る。

坂道を登り切ると、いきなり視界が開けた。丘の上からはずいぶん遠くまで見渡せた。住宅街にあるのが信じられないくらい近くに海が見え、遠くにいくつか島が見えた。
そこは、墓地だった。

それでは、と神父さんらしきお爺さんは会釈をして坂道を下っていく。
乃梨子がしばしその後ろ姿を見送っていると、不意に手を握られた。志摩子さんが俯いて、何かに耐えるような顔をしていた。
それから、意を決したように歩き出した。

志摩子さんはゆっくりと、左右を見回しながら歩いている。墓石の表面に彫られた文字を一つずつ、丁寧に確認しながら。
探しているのだ、というのは分かっていたが、乃梨子は黙ってその様子を見ていた。

ふいに、志摩子さんがハッとした顔をして立ち止まった。その墓石は他のものよりも小さくて、何の飾り気もなく、慎ましいものだった。
その側面に、小さくて気づかないくらいの大きさの字で女性の名前が彫られていた。
志摩子さんの、乃梨子の手を握っているのとは反対の手が、墓石に伸びて、名前をそっと撫でた。
志摩子さんはぽろぽろと涙を零した。それでも決して俯こうとしなかった。ただじっと見つめていた。
乃梨子は何をすることもできず、ただ黙然と立ち尽くしていた。

どのくらいの時が経ったろう。ほんの数分程度の時間だったのかもしれないし、もっとずっと長い時間だったのかもしれない。

突然、背後で誰かを呼ぶ声がした。あるいはただの呟きだったかもしれない。
振り返ると、マリア様のような微笑みを浮かべた女性が立っていた。



「突然お邪魔して、すみません」

「いいえ、こちらこそ無理に連れてきてしまったみたいで申し訳ないわ」

上ってきた坂道を下り、先ほどの建物に入ると、小さな部屋に通された。
どうやら応接室のようだった。お茶入れるわね、とその人は志摩子さんと乃梨子を残して扉の向こうに消えた。

志摩子さんは俯いていた。思っていたよりも落ち着いているようだが、その表情からは何も読み取れない。
突然、お茶でも飲んでいきなさい、と声をかけられたのだ。
志摩子さんの様子から乃梨子は断ろうとしたのだが、その人は言うが早いか坂道を降りてしまったので、二人はついていかざるを得なかった。

「お待たせ」

いつの間にかその人は戻ってきていて、三人分の紅茶をテーブルに置いている所だった。
彼女は現役のシスターだということだった。
リリアンでよく見るいわゆるシスターの格好ではなかったため気づかなかったが、乃梨子の母親くらいの年齢であろう、その人は、そういわれてみると黒っぽい、地味な格好をしている。
この教会にはよく手伝いに来るとのことだった。実家に近いため、昔からよく来ていたという。
シスターになるからには一大決心をして神の門を叩いたのかと思いきや、この土地では代々クリスチャンという家もそう珍しくはないし、
両親も早くに亡くなっていたから、懇意にしていたシスターの伝手で自然に修道院に入ったらしい。
そんなに大層な考えで入院したわけではないわよ、と彼女は言った。もちろん、マリア様の御許で人々の幸福のために働けることはとても素晴らしいことだと思っていた、というが。

墓地でのことは何も問われなかった。
何か聞きたいことがあるのではないかと思っていたのに、学校の話をしたり、来週あたり接近予定だという台風の話をしたり、このあたりの名物の話をしたり、他愛もない話ばかりだった。
最初こそ警戒していた乃梨子だが、話を続けるうちに緊張がほぐれて穏やかな気持ちになっていくのがわかった。
志摩子さんも、いつもより口数が少ないにしても、徐々に元気を取り戻していったように見えた。
もしかすると話をすること自体が目的だったのではないだろうか、と後になって乃梨子は思った。

別れ際、彼女は二人を抱きしめて言った。

「誰かのためではなく、自分のために生きなさい。何があっても、自分の心は偽らないで。……幸せを祈っているわ。もし迷ったらまたここにいらっしゃい」

きっと会えるから、と。
それはきっと志摩子さんに向けたメッセージに違いなかった。
宿の近くで食事をとり、順番にシャワーを使うと、二人はすぐに就寝の支度をした。明日も早朝に出発しなければならない。
消灯し、布団に入ってから志摩子さんはぽつり、ぽつりと話を始めた。
この場所はお兄さんが探してくれていたということ。電車や宿の手配も、旅費もすべて出してくれたらしい。
未だ家を出たままとのことだが、お父さんと喧嘩をしながらも、お兄さんはたまに家に帰ってきているようだった。

志摩子さんが三年生に進級してからしばらく経った頃、いつものようにふらりと帰ってきたお兄さんは志摩子さんに改まった様子で声をかけた。

「いつかも話したが、お前、まだシスターになりたいか。……いや、すぐに答えられることじゃないのはわかってる。返事を聞きたいのじゃない。もし、お前が迷っているならな」

行ってみるか。そう言ってお兄さんは、今日訪ねたあの場所のことを伝えたのだそうだ。
もし行くなら旅費も全部自分が出すし、不安なら一緒に行ってもいいと。

「俺は兄らしいことは何もしてやれていない」

「そんなことは……」

「いや、そうだ。俺が親父から逃げているせいでお前には迷惑ばかりかけている」

「……」

「どう思っているかは知らんが、……志摩子、お前はもっと我儘になれ。もっと自由になれ」

志摩子さんはすぐには決断できなかった。それでも一度聞いたからには心にずっと引っかかっていたのだそうだ。
それで、乃梨子が進路のことを訊いたとき、ここに来ることを決めたらしい。
我ながら、ずいぶん重大な決断をさせてしまったと乃梨子は思ったが、志摩子さんの声はとても清々しい調子だった。

さすがに長距離移動が堪えた乃梨子は、話を聞き終える頃にはうとうとしていたが、それでも志摩子さんが遠慮がちに指を絡めてきたことは覚えている。
その夜は、手をつないで眠りについた。



東京駅のホームに降りた時だった。
改札に向かっていく人の流れを見送ってから、志摩子さんは乃梨子を正面から見つめ、真剣な表情ではっきりと告げた。

「私、リリアン女子大に進学するわ」

まるでマリア様に宣誓するかのようにはっきりと告げた。声からは、強い意志を感じた。何かを得て、何かを捨てたのかもしれなかった。
それから乃梨子の腕を掴んで顔を隠すように乃梨子の右肩に額をつけ、小さな声で「ありがとう」と呟いた。
顔を上げたとき、志摩子さんの瞳は少し潤んでいたけれど、はにかんだような、素敵な笑顔だった。
志摩子さんのそんな表情はそれまで一度も見たことがなかった。
乃梨子は、うん、としか答えられなかった。

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